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Ring 'O Records 04 Colonel (Doug Bogie) 02  [リング・オー・レコード]

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Away in a Manger  c/w  Cokey Cokey  by  COLONEL DOUG BOGIE


リング・オー・レコーズの北米でのディストリビューターはキャピトルレコーズのはずなのですが、なぜだかこのタイトルの米国盤レコードは別の大手レーベルのひとつだったABCレコーズから、リング・オーの表記は一切無しでリリースされています(時期を同じくして、翌年1月下旬にEMIとのレコーディング契約が切れるリンゴが、 500万ドル相当、5年間のレコーディング契約でABCレコーズに移籍する、という噂もありました)。

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英国盤とはA/B面を逆にしての75年12月8日発売で、もろにクリスマス市場にロックオンしたノベルティ盤としてのリリース。サイドを逆にしただけで両面とも音源は英国盤と同一なのですが、後に少し混乱を招くミス表記がレーベルにあります。
もう一度ABC盤のレーベル画像のタイム表記を見てください(画像上クリックで拡大されます)。わざわざA面にした「AWAY IN A MANGER」のタイム表記が3分54秒。しかし残念ながらロングヴァージョンということではなく、音源は英国盤に同じくあっさり3分行かずに終わります。単純に2と3の文字打ち間違えがスルーされてしまったようです。

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こちらはプロモーション用のリリースで片面ステレオ、もう片面モノラルでの収録。ご丁寧にイントロ11秒と表記が加えられているのに、両面きっちり3分54秒と誤記されています。

でもまあなんにせよ、ダグ・ボギー大佐はリング・オーとの契約で得た400ポンドのアドバンスで、当時母親と暮らしていたアパートの為に中古のカラーテレビを購入、という成果でリング・オーとの契約は終わります。

その後もダグさんはレコーディングエンジニアの仕事に精進し、翌々77年には、元ヤードバーズ(The Yardbirds)のキース・レルフ氏とジム・マッカーティ氏がキース氏の妹さんであるジェーン・レルフ (Jane Relf)嬢をヴォーカリストとして69年に立ち上げたバンド=元祖ルネッサンス=その後ビジネス上のあれこれでルネッサンスは別バンドに生まれ変わり、76年にはキース氏の不慮の事故による夭折などを経て、ジェーン嬢が亡き兄者の遺志を継ぐ形で=イリュージョン(Illusion)と改名しての再デビューアルバム「醒めた炎(Out of the Mist)」に バンドと共にプロデューサーとしてクレジットされ、もちろんエンジニアとしても携わるくらいの存在となっていました。

スタジオワークの空き時間にもせっせと自作曲のデモテープ作りをしていたダグさんは、エジンバラのスタジオでDavid Valentine氏という人物に出会います。
この方は鍵盤奏者で曲も書けヴォーカルも取れたので意気投合し、一年間かけてふたりでデモを完成させ、ロスアンゼルスに飛んで売り込みをかけます。A&Mレコーズに気に入られリリース契約を結び、ベーシストとドラマーを迎えて、ダグさんがギター、David Valentine氏がキーボードとヴォーカルという布陣の「R.A.F.」と名付けたバンドを結成。同名タイトルのアルバムで1980年にデビューします。ダグさんによると、R.A.F.というのは「Rich And Famous」の略だそう。また、売り込みに際して自身が以前クイーンに在籍していたことは、一切言わなかったそうです。

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翌81年には、新たなキーボーディストを加え5人編成となり、セカンド・アルバム「The Heat's On」を発表。このアルバムリリースの際、ジャケットのイメージについてアートディレクターと話し合ったとき、ダグさんは自身が気に入っていたシュールレアリスムの画家、ルネ・マグリット(René François Ghislain Magritte)氏の作品「The Pleasure Principle(快楽原則)」について話したところ、そのオリジナルをA&Mレコーズの創業者、ハーブ・アルパート氏が所有していたので、マグリット氏直筆の絵画でセカンド・アルバムのカバーを飾ることが出来たそうです。

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ファースト、セカンド共に日本では発売されていません。米国と英国他欧州諸国のいくつかでリリースされ、各々のアルバムから1~2曲のシングル・カットもあったのですが、まったくの鳴かず飛ばず。ダグさんたちは、それでも3枚めに向けてデモ制作をつづけていましたが、A&Mはそれ以上動かずバンドは解散、ダグさんはロックミュージシャンとしての道には見切りをつけ、82年にエジンバラで映像制作を軸とした自分の会社を立ち上げて今に至ります。

R.A.F.のサウンドですが、80年当時全盛だったスーパートランプ(Supertramp)やフォリナー (Foreigner) をスケールダウンした感じと言うか、シンセで彩られたポップ寄りロック、というありきたりな印象で、全体的に楽曲の魅力に乏しいかな、と。両アルバムとも日本のアマゾンでもデジタル配信されているので、興味のある方は聴いてみてください。David Valentine氏が86年にもう一枚、R.A.F.名義でアルバムをリリースしており、アマゾン配信でのアーティスト名義は、3枚とも「RAF and David Valentine」となっています。

現在でもDoug Bogie氏は、@DougBogieでツイッター、@doug.bogieでインスタグラムにて近況を発信されています。

2010年に海外ネット掲示板内のドラマーに関する複数のトピックにHarvey the Roadieと名乗る、1960年代の英国で十代を過ごしたのであろう人物(本人曰くジミー・ペイジ氏より数年歳下、書き込み当時60歳を自称)が現われ、ジミー氏が去った後のヤードバーズとの思い出話などとともに、自身のドラム演奏で唯一リリースされたのは、仲間のDoug Bogieとふたりだけで録音したリング・オーからのシングル盤両面だった、という書き込みをしていました。真偽不明ですが書き添えておきます。

さてここまで、アルバム1タイトルにシングル盤4タイトルを地道にリリースしてきたリング・オーですが、このタイトルを最後に、迎えた76年通じてまる一年間以上リリースが途絶えてしまうことになります。


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Ring 'O Records 04 Colonel (Doug Bogie) 01  [リング・オー・レコード]

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Cokey Cokey  c/w  Away in a Manger  by  COLONEL


1975年11月21日、カールさんのシングル盤から一週間遅れで英国リリースされたのがこの作品。この「Colonel」と称するバンド?ユニット?単独アーティスト?が一体何者なのか、日本では長い間謎に包まれていました。

後にご紹介する米国盤によってアーティスト名が「Colonel Doug Bogie」であることは知られていましたが、後年、インターネットの普及による各国からの情報やご本人からの発信もあり、その正体が徐々につまびらかになりました。

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一番決定的だったのは、2010年に英国Aurum Press社から出版されたMark Blake氏著のクイーン(Queen)伝記本「Is This the Real Life?: The Untold Story of Queen」。
この著作によってDoug Bogie氏なる人物は、ジョン・ディーコン(John Deacon)氏のひとり前のベーシストであったことが明らかにされました。

この本の記述と、その後のネット情報等を総合すると、1971年1月、当時のベーシストに脱退されてしまったクイーンが英国の音楽誌「メロディ・メーカー」のメン募欄に募集をかけたオーディションにダグ・ボギーさんがレスポンスしたことが始まりでした。
そのときダグさんは17才で地元スコットランドのセミプロミュージシャン。結果見事採用され、フレディ、ブライアン、ロジャーのラインアップなバンドに迎え入れられます。
バンドのギグに参加したのは2回だけ。最初は71年2月19日、60年代からつづく由緒正しき英国ロックバンド、プリティ・シングス(PrettyThings)の前座として。2回目は翌2月20日、英国プログレ界の雄、イエス(Yes)の前座としてキングストン工科大学でギグを行ないました。

そしてこのギグの後、反省会の楽器車内でダグさんはフレディ氏からNGをくらってしまいます。
フレディ氏は、バンドのバランス的にどっしりと構えた落ち着いたベーシストがご所望だったようで、一方ダグさんは当時17才(他方フレディ24才、ブライアン23才、ロジャー21才)、若さに任せて飛んだり跳ねたりの奔放なステージアクションが自身の持ち味だと思っていたのでした。結果フレディ氏から「すべてがひどい」「時間の無駄だ」という評価を下され、ブライアン氏からも良い顔はされずクビになったのでした。
明けて3月にジョン・ディーコン氏(当時19才)が後釜に座りクイーンの快進撃は始まります。ちなみにクイーンの歴代ベーシスト来歴は、Mike Grose氏、Barry Mitchell氏、 Doug Bogie氏、でJohn Deacon氏となります。

当時大学生だったダグさんは、電話回線技師見習などのバイトをしつつ、PAミキシングやレコーディング・エンジニアの勉強をつづけ、20才の頃にロンドンの由緒正しきコンサートホール、レインボウ・シアター(Rainbow Theatre)にオーデイションの末PAミキシング担当として採用され精進、更に英国のCBSスタジオ等レコーディングスタジオでもエンジニア見習として働き始めます。

有名どころとの仕事としては、英国のシンフォニックなプログレ・バンド、ルネッサンス(Renaissance)74年リリースのアルバム「運命のカード(Turn of the Cards)」にアシスタント・エンジニアとして、ジャズロック系プログレ・バンド、ソフト・マシーン(Soft Machine)75年リリースでジャケのイラストが可愛らしい(ちなみに私はバンドのことはよく知らずにこのアルバムを当時ジャケ買いしました)「収束(Bundles)」ではテープ・オペレーターとしてDoug Bogieの名前でクレジットされています。

そんなお仕事の合間に作っていた自身のSFチックでシリアスなコンセプトアルバムのデモテープがリンゴの耳に届き、お遊びでついでに作ってあったこの楽曲デモをえらく気に入ってくれたのが、当時リンゴとよくつるんでいた飲み友達でリンゴが最もリング・オー・レコードに引っ張りたがっていたけれどRCAが手放してくれなかった、著名シンガーソングライター、ニルソン(Harry Nilson)氏。
そんな経緯でボギーさんは、リング・オーとシングル一枚だけのリリース契約を決めました。アーティスト名である Colonel(カーネル=大佐という意味)もニルソン氏の発案だとか…ベタに「ボギー大佐」という洒落ですね。

この音源も現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思います。以前はYouTubeで聞けたりもしたのですが今は無いみたい。

A面の「COKEY COKEY」は、もともと欧米キリスト教圏で「Hokey Cokey」やら「Hokey Pokey」と呼ばれる19世紀頃からの英国伝承歌で、「左手入れて、左手出して、入れて出して入れて出して振り回して」という歌詞の通り、振りつけの付いたフォークダンス的楽曲です。伝承歌ゆえメロや歌詞も時代とともに色々変わっていくのですが、1942年に北アイルランド出身のJimmy Kennedy氏が「この歌詞の著作は私だ」と「COKEY COKEY」というタイトルで著作権登録された楽曲のカバーとなるのがこの音源です。

ダグさんのアレンジでは、ゆったりレゲエチックに心地よくレイドバックした感じで料理しています。タイムは約3分20秒。
ちなみに79年には英国グラム系パワーポップ・バンド、スレイド(Slade)が同曲を「Okey Cokey」というタイトルで、ほぼ同じ歌詞とメロディをストレートなロックサウンド大騒ぎアレンジにてシングル盤発売していました。

カップリングの「AWAY IN A MANGER」も19世紀発祥のキリスト降誕を歌った、これまた欧米圏で極めてポピュラーなクリスマスキャロル。同じタイトルで二種類のメロディがあるようですが、ダグさんのバージョンは「讃美歌21-269 飼いば桶にすやすやと」というタイトルで知られる方のメロディをパワーポップ全開なノリノリエイトビートでカバーしています。タイムは約2分55秒。
こちらの音源は以前、ドラムがリンゴでギターはクラプトン、という噂もありましたが実態は違うようで、その噂に対して、売れ残ったシングル盤を捌くためにレコード会社が流したデマだ、とする言説もありました。

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というわけで、このシングル盤はクリスマスシーズンをターゲットにしたトラディショナル楽曲アレンジのワンショット契約なノベルティレコードというのが結論のようです。
上の画像は当時の英国ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌かメロディ・メーカー誌に載った、このレコードの宣伝広告。切り抜き済で入手したため掲載誌が定かではありません(蛇足ですが切り抜き裏面はジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)嬢のジャコパス・コラボ直前な傑作アルバム「夏草の誘い(The Hissing of Summer Lawns)」の広告断片です)。

ずいぶんと長くなってしまったので、ダグ氏のその後などのご紹介は次の米国盤紹介の項で。

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Ring 'O Records 03 Carl Groszmann 01 [リング・オー・レコード]

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I've Had It  c/w  C'mon and Roll  by  CARL GROSZMANN


レーベル第3弾めのシングルは、1975年11月14日リリース、オーストラリア出身ミュージシャンのこの曲でした。
 
カール・グロスマンさんは十代の頃から豪州ミュージックシーンで音楽活動を開始し、それなりに名前が売れていたようで、極初期のビージーズ(The Bee Gees)=英国生まれ豪州育ち、に楽曲をカバーされたりもしていたようです。1960年代末に音楽仲間数名とともに英国ロンドンへと移住して音楽活動をつづけます。
移住してすぐの1970年に自身が書いた「ダウン・ザ・ダストパイプ(Down the Dustpipe)」という楽曲が英国のバンド、Status Quo(当時の日本盤リリース元レコード会社の表記に従うと、ステイタス・クオ)に取り上げられ、全英最高位12位のスマッシュヒットとなりました。

1973年には、こちらも英国生まれ豪州育ちなオリビア・ニュートン=ジョン(Olivia Newton-John)嬢に「片想い(Being on the Losing End)」という楽曲も提供。日本では、独自選曲編集のベスト盤で金ピカジャケットの「クリスタル・レイディ(Crystal Lady Golden Double 32)」という二枚組レコードに収録されていました。
ちなみにカールさん、楽曲提供のときはスペルが少し違ってGrossmann名義、豪州時代はCarl Keatsという名前でした。

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そんな地道な活動の末、リング・オーと契約したカールさんにリンゴの期待も大きかったみたいで、リンゴが76年に発表するポリドール移籍第一弾アルバム「リンゴズ・ロートグラヴィア (Ringo's Rotogravure) 」のA面1曲めにして先行シングルにカールさん作の「ロックは恋の特効薬(A Dose Of Rock'n Roll)」が選ばれています。
また、カールさんのこのシングルリリースと同時期にアルバム制作も企画されたらしく、実際にリング・オーのレコード番号までアナウンスされていましたが結局未発表。そのカタログ番号である2320 102は欠番となっています。

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この音源もカップリングの「C'MON AND ROLL」共々現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思います。A面の「I'VE HAD IT」は日本語に訳すと「もうやだ」みたいな常套句ですから、YouTubeで検索すると別アーティストの同名異曲がたくさんヒットします。
プロデュースは、Peter Gage氏という人で、60年代に英国でそこそこ名を馳せたパブ・バンドのメンバーで70年代には、よりファンキーな別バンドで活動していた人、以上の情報は探せていません。なのでレコーディング参加メンバーも不明です。

サウンドはというと、50~60年代ノスタルジック寄りの陽気でポップでキャッチーなロックという感じ。声質がしゃがれ気味だけれど通る感じに独特で、楽曲の傾向としてはラトルズ(The Rutles)で有名なニール・イネス(Neil Innes)氏の70年代初期ソロ作品に通じるものがあるかな、と感じました。

このシングル盤は英国リング・オーのみのリリースで他国では一切リリースされませんでした。更に77年にもう一枚リング・オーからカールさんのシングルのリリースがあるのですが、その際のプロモーション用ライナーノートではそっちのシングルがデビュー盤とされ、こっちのシングルは無かったことにされていました。

なお、カールさんは2018年7月にオーストラリアで亡くなられたそうです。Rest in Peace.

カールさん絡みでは、ロートルなビートルファンであれば興味深いエピソードがまだあるのですが、それは次作シングルの項で。

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Ring 'O Records 02 Bobby Keys 01 [リング・オー・レコード]

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Gimmie the Key c/w Honky Tonk(Part1&2) by BOBBY KEYS


リング・オー・レコーズ・リリース第二弾は、1975年8月25日全米先行リリース、Bobby Keys(ボビー・キーズ)氏のこの楽曲のシングル盤です。アメリカでの配給元はキャピトル・レコーズで、専用の黒いスリーブに入っていました。


ロック系のサックス奏者として名を馳せたこの人に関しては、当時の洋楽好きな方々には説明不要と思います。ストーンズ(The Rolling Stones)の「ブラウン・シュガー(Brown Suger)」やジョンの「真夜中を突っ走れ(Whatever Gets You Thru The Night)」のサックス・ソロでもおなじみの名サックス・プレイヤー、ビートル関係ではジョン、ジョージ、リンゴのいくつかのアルバムでもプレイしている売れっ子セッションマンでした。知らない、という方はWikiで検索どうぞ。


プロデュースは、同じサックス仲間で当時ボビーさんとセットで様々なセッションに呼ばれ、ストーンズのツアーも一緒に巡っていたトレヴァー・ローレンス(Trevor Lawrence)氏。
この音源は現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思いますが、YouTubeでアーティスト名と楽曲名で検索すればA/B面とも容易にヒットするはずです。



一聴したとき感じたのは、このサウンド、なんか知ってる…という既視感(既聴感?)でした。よくよく考えて、これだ、と思ったのは、このリリースより少し前、前年からヒットし始めて全米ナンバー1ヒットとなったアヴェレイジ・ホワイト・バンド(Average White Band=AWB)の「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」(Pick Up the Pieces)。当時ラジオや街中の有線で、おしゃれなインスト曲として、頻繁にかかっていたのを思い出しました。


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レコーディングメンバーに関しての情報は何もみつけられていないのですが、サウンドはギターもベースもいかにもなジャズ≒フュージョン(当時はクロスオーバーって呼ばれていたっけか)畑ミュージシャン的タイトな演奏で、リンゴ人脈ではない(録音には関わっていない)な、と思わされます。

なので、この当時のボビー氏参加作品を漁っていたところ、ジョー・コッカー(Joe Cocker)氏の75年4月発売のアルバム「ジャマイカ・セイ・ユー・ウィル(Jamaica Say You Will)」に収録の「It's All Over But the Shoutin'」という楽曲にボビーさんとトレヴァーさんが参加、他のメンバーにギター=コーネル・デュプリー(Cornell Dupree)氏、ベース=チャック・レイニー(Chuck Rainey)氏、ドラム=バーナード・パーディ(Bernard Purdie)氏という、いかにもなメンツをみつけて、この辺の方々の参加かな、と妄想しております。


愉しげにリラックスしつつもタイトな演奏なカップリングの「Honky Tonk (Part 1 & 2)」は、1956年発表なスリーコードブルースのスタンダード曲。あのソウルブラザーNo,1ジェームス・ブラウン(James Brown)氏も1972年にシングル盤リリースしています。


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こちらはGIMMIE THE KEYのロングバージョン(レギュラー盤は2分34秒、ロングバージョンは4分06秒)を収録したプロモーション盤(SPRO-8193)。A/B面とも同じヴァージョンをステレオで収録。


サックスソロ後の2分過ぎくらいまではずっと同じで、レギュラー盤はそこからド頭のリフに戻ってそのままフェードアウトで終わりますが、ロングヴァージョンは、ソロ後にBメロをもう一度挟んでからひと通りくり返す感じです。おそらくこちらがオリジナル録音でレギュラー盤が編集でしょう。

レーベル面に大きく「DISCO」と書かれていることからもわかるように、当時のディスコ・クラブにプロモ盤を配ってのヒット狙いアイテムだったのでしょう。


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アメリカでのリリースから10日くらい遅れて1975年9月発売となった英国盤。

この他に各々別デザインのピクチャースリーブが付いたフランス盤、ドイツ盤(この頃はまだ西ドイツ)ベルギー盤がリリースされたようで、下画像は英国盤と同番号、同カップリングのフランス盤。

リリース元はフランスのポリドールでポケットタイプのスリーブが付いています。


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なお、ボビー・キーズ氏は、2014年12月2日米国テネシー州で、病気のため70歳で亡くなっています。Rest in Peace.

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Ring 'O Records 01 David Hentschel 02 [リング・オー・レコード]

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1975年3月3日付 New York Magazine の広告

アルバム「Ringo」収録曲全曲をARPシンセでインストゥメンタルに料理したこのアルバムは、リンゴが持つ自身の楽曲出版社名と同じ「Startling Music」と名づけられました。

1974年9月に、その後世界的に話題を呼んだ富田勲氏によるムーグ・シンセサイザーミュージック作品群の処女作にあたる「月の光」が、保守的な日本のレコード会社各社に断られた挙句、米RCAレコードより「Snowflakes are dancing」というタイトルで全米リリースされ、徐々にシンセミュージックが注目を集めていた頃なので、会社側もそれなりの期待感を持っていたと思われます。

https://www.youtube.com/watch?v=wD-b6mU3SYQ

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楽曲によっては、シンフォニック系のプログレっぽく聴けないこともない曲もいくつかあるのですが、歌メロを忠実になぞってしまうとファミレスのBGMとかにありがちなサウンド、という印象になってしまい、このアルバムは、リリース後、ほとんど話題になることもなく、セールス的にも惨敗だったようです。

個人的には、歌メロが露骨に出てこないA1、A2、A5のPart1や、教会音楽風の荘厳なオーバーチュアを3分20秒余りに渡り冒頭にくっつけたB1(本編に入るとファミレスBGM風)、若きフィル・コリンズ氏の手数ドラムが炸裂する当時流行のフュージョン風味(この頃はまだクロスオーバー・ミュージックて呼んでいたっけかな?)なB2、B5などは面白く聴けました。とくにA2なんて、知らずに聴いたら同じ曲とは思えないんじゃないかな。
ちなみにビートルズメンバー参加音源マニアの方には、A3が要チェック。リンゴがFinger Clicks(ようするに指パッチンですね)で参加しています。とても控えめな音で録音されています。

あと、ムーグと言えば、このアルバムの日本盤LPは、オビで大嘘をついています。
(クリックで拡大出来ます)

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わかりました?デヴィッドさんの愛機はARP(アープ)社のシンセサイザーです。ムーグ(本来の発音はモーグだそうな)社とアープ社はライバル同士。
無難に、シンセサイザーで演奏した、ってしておけばよかったのにね(笑。

リリース状況は英米日の他、アルバムは、フランス、ドイツ、オーストラリアで、シングルは同カップリングで、フランスとドイツでのリリースが確認されています。

セールス的には失敗作に終わった本作ですが、デヴィッドさんにとっては、このアルバム制作が自身の次のステップに向けての大きな足がかりとなりました。そのキーパースンとなったのが、このアルバムにドラマーとして参加したフィル・コリンズ氏。
ビートルズ大好きのフィル氏とデヴィッドさんは意気投合し、ちょうどピーター・ガブリエルが脱退して変革期にあったフィル所属のバンド=ジェネシスのニュー・アルバムをバンドと共に共同プロデュースすることになります。

そう言えばフィル氏は、90年代のインタビューで、ジョージの「All Things Must Pass」セッションに呼ばれてコンガを叩いたという逸話を披露していました。おそらくこのとき、フィル氏とデヴィッドさんはすでに顔合わせしていたと思われます。奇しくもフィル氏は1951年1月30日生まれでデヴィッドさんとはきっかり一歳違い。30歳前後の一流ミュージシャンばかりが集った現場で、まだ10代だった浮いているふたりが言葉を交わしていた可能性はあると思います。

ジェネシスとは、1976年リリースの「A Trick of the Tail」から1980年の「Duke」までのスタジオ・アルバム4作で、エンジニアとバンドとの共同プロデューサーを勤め、「Duke」では、ジェネシスとしては初めて、英国アルバムチャート1位を獲得しています。

この頃のジェネシスだと、この曲が好き。
https://www.youtube.com/watch?v=vRD49AFxJVI

ちなみに、フィル氏と一緒に「Startling Music」セッションに参加した、ギターやバンジョーでクレジットされている Ronnie Carylという人は、1969年にフィリップス系列の Fontana Records からデビューした Flaming Youth というバンドをフィル氏と組んでいたバンド仲間(このときは、ベース&ギター担当。もうひとりのギタリストと曲によってギターとベースをとっかえっこしていた模様)で、シングル3枚、アルバム1枚を残した後、1970年、共にジェネシスのオーディションを受け、フィル氏採用、ロニー氏不採用となったそうな。

えらく若いフィル氏の雄姿が拝めます。
https://www.youtube.com/watch?v=4fj9JZhG8s4

その後も陽が当たらないながら地道に活動をつづけていたようで、約四半世紀後の1996年、フィル氏のバックバンドのバックボーカリスト兼リズムギタリストとしてツアーを巡ることになる、という、なんだかほっこりするお話もあります。

ロニー氏の公式サイト
https://sites.google.com/site/ronniecarylofficialsite/biography-en-1

「Startling Music」のセッションには、もうひとり、David Cole というドラマーも参加していて、シングルカットされた「オー・マイ・マイ」だけ、なぜだかこの人が叩いているのですが、この人に関しては情報が探せませんでした。

デヴィッドさんはその後も、エンジニア、プロデューサー、映画音楽などで数々の実績を残し、現在も第一線で活躍されています。詳しくはデヴィッドさんのサイトのProfileからDiscographyの欄をご覧ください。

この項の締めくくりは、そんな裏方気質のデヴィッドさんが自身の名義で出した、数少ない(であろう)レコードのうち、わたくしが唯一入手出来た一枚です。
1983年英国リリースの同名映画サウンドトラック盤シングル「Educating Rita c/w I Can't Dance」(mercury RITA1)。
作曲、アレンジ、プロデュース、エンジニア、すべてデヴィッドさんです。

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A面
https://www.youtube.com/watch?v=GzQbNzP4eUA
B面
https://www.youtube.com/watch?v=kIpO74dOccg

「Educating Rita」は、1983年公開のイギリス映画。日本では劇場未公開ですが「リタと大学教授」というタイトルでソフト化されました。
けっこう評判の良い映画で、その年のアカデミー賞、英国アカデミー賞、ゴールデングローブ賞に他部門でノミネートされ、いくつか受賞しています。現代版「マイ・フェア・レディ」と評されたそうな。

そんな感じで、デヴィッド・ヘンチェルさんの今後益々のご活躍をお祈りしつつ、ご紹介を終わりたいと思います。
それではみなさま、ごきげんよう。

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Ring 'O Records 01 David Hentschel 01 [リング・オー・レコード]

去る4月28日のサー・ポール・マッカートニー武道館公演を観て、ビートルズをずっと聴いてきて良かったなあ、とえらく感動していたら、翌日に「A is for Apple VOL.1 1966-1968」という凄まじく詳細な APPLE Corps の研究本が届き、パラパラめくっていたら、なんだか無性にビートルズ関連の文章を書きたくなり、突然復活しました。

これがその本。
ハードカバー厚さ約5センチ、686ページ、写真はすべてカラーという労作です。

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何について書こうか、といろいろ考えたのですが、ビートルズ関連は、コレクション、楽器、演奏、追っかけ、エトセトラ…たいがいの分野で詳細に研究されている方のサイトやブログがみつけられます。
それならうんとニッチな部分で、と考えて思いついたのが Ring O' Records 。70年代半ばにリンゴ・スターが設立したレーベルです。

このレーベル名を冠して日本盤が出たアーティストが一名しかいないこと、リンゴ自身がこのレーベルから一枚もリリースしなかったことなどから、とくに日本では、リング・オー・レコーズの知名度は超低いみたい。今回ご紹介するアーティスト「デヴィッド・ヘンチェル」でググると、わたくしが15年前くらいに作って放ったらかしのサイトが1ページ目にヒットするくらいの注目度です(笑

というわけで、これからヒマをみつけてぼちぼちと、 Ring O' Records からリリースされたレコーズとアーティストのあれこれを、わたくしがみつけた、ためになる他サイトさんへのリンクも織り込みながら、ご紹介していきたいと思います。

まずは、Ring O' Records の概要です。2004年で更新が止まっているこのサイトさんが見やすいです。

http://www.rarebeatles.com/ringorec/ringo.htm

Ring O' Records というレーベル名が初めて公になったのは、1974年9月20日、英ポリドールにより、近い将来リンゴが設立するレーベル=Ring O' Records を配給する予定がある、と発表されたときでした。ただし、RING O という呼称とレーベルロゴにもなった電話のダイアルを模したロゴマークは、1973年7月26日にリンゴが設立した音楽出版会社=Wobble Music Ltd.のロゴとして、すでに以前から使われていたようです。新レーベル名を決めるにあたってはジョン・レノンのサジェストがあった、とする文献もあります。ちなみに、その2週間前の9月6日には、ジョージ・ハリスンが自身のレーベル=Dark Horse の設立を発表していました。

Ring O' Records からの初リリース、デヴィッド・ヘンチェル David Hentschel のアルバム「Startling Music (ST-11372)」最速リリースはアメリカで、1975年の2月17日。ST というレコード番号からもわかるように、米キャピトルからの配給でした。同時にシングル盤「Oh My My c/w Devil Woman (4030)」もリリース。主要音楽誌や一般誌にも告知広告をうち、けっこう話題となりました。

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1975年2月15日付Billboard 誌の広告

本国イギリスでは、遅れること約一ヶ月の3月21日に、まず同カップリングのシングル(2017 101)を、アルバム(2320 101)はアメリカ盤から丸々2ヶ月遅れの4月18日でした。こちらの配給はもちろん英ポリドール。

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新レーベルを発足して記念すべき初アーティストをリリースしたというのに、リンゴが雑誌インタビューなど本格的にレーベルのプロモーション活動を開始したのは、1975年4月初旬から。ビートルズ史的には会社登記された1975年4月4日が正式発表の日ということになっています。イギリスでのアルバム発売に合わせた、と言えばそれまでですが、このへんのグダグダさ加減が、後のレーベルの行く末を早くも暗示しているかのようです。

日本ではずいぶん遅れて、1975年6月1日にシングル(DW1091)が、同年7月1日にアルバム(MW2117)がポリドールよりリリース。少なくとも当時のML誌には、ポリドールからの白黒広告もあったし、シングル、アルバム共にレビューも載っていた記憶があります。ちゃっかり日本語のロゴなんかも作っちゃって、それなりに宣伝されてはいました。

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そんな記念すべきリング・オー・レコーズ第一弾アーティストのデヴィッド・ヘンチェル David Hentschel さんとは、どんな方なのでしょう。

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オフィシャルサイトをどうぞ。

http://www.thekeyboard.co.uk/

1952年1月30日サセックス生まれのデヴィッドさん。17歳からロンドンのトライデント・スタジオで働き始めます。初仕事は、1969年7月のデヴィッド・ボウイ「Space Oddity」セッションでのお茶汲みでした。その翌年にジョージの「All Things Must Pass」セッションにエンジニア=ケン・スコットのアシスタントとして参加(クレジットはされていません)。1972年のポールとウイングスによる「Red Rose Speedway」セッションでも、ボーカルやその他細々としたオーバーダブに立ち会った、とご本人が申しております。

1973年にトライデント・スタジオにARPシンセサイザーが導入されたのをきっかけにシンセにのめりこみ、今で言うマニピュレーター的お仕事で頭角を現します。その一つの頂点と言えるのが1973年10月にリリースされたエルトン・ジョンの名作アルバム「Goodbye Yellow Brick Road 」の一曲目「葬送〜血まみれの恋はおしまい(Funeral for a Friend/Love Lies Bleeding)」。冒頭のARPシンセサイザーは彼の演奏で、ミュージシャンとしてもクレジットされています。更にアルバム全体のエンジニアとして、1973年グラミー賞ベスト・エンジニアード・レコーデイング(ノン・クラシック)部門にもノミネートされました。ちなみにその年受賞したのは、こちらもARPシンセを随所にフィーチャーしたスティヴィー・ワンダーのアルバム「Innervisions」でした。

フリーランスのお仕事も増やしたいと思っていた頃、ちょうどリンゴが自身の新レーベルのアーティストを探していることを知り、デヴィッドさんのマネージメントをしていた人が、アップルのニール・アスピナル氏と知り合いだったこともあり、デモテープがリンゴの耳に届きます。その内容は、リンゴの1973年の大ヒットアルバム「Ringo」収録曲をシンセサイザーでインスト演奏したもの。これをリンゴはたいそう気に入り即契約。1973年9月にジョン・レノンから譲り受けたアスコットのスタジオ(アルバム「Imagine」の録音風景で有名ですね)、その名も Startling Studios にわざわざ ARP2500 を導入し、1974年9月にレコーディングが始まりました。

プロデュースはデヴィッド本人と John Gilbert という人。この人がデヴィッドさんをニール・アスピナル氏経由でリンゴに紹介したデヴィッドのマネージャーさん。IMDbで調べると、60年代から活動している英テレビ番組の劇伴音楽プロデューサーぽい方のよう。ドラムとギター、バンジョーに数人雇った以外は、すべてデヴィッドのシンセでの演奏、アレンジと録音エンジニアも本人という、身内で固めたこじんまりとした録音だったようです、出来上がった音は、こんな感じ。

https://www.youtube.com/watch?v=MeYxavdRwrI
https://www.youtube.com/watch?v=LJZqyhFoSO0

想定外に長くなりそうなので、いったん切ってつづきます。

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C@R132 伊欧州他 FRISBIE & THE FOOTBALL STARS (1998,1999) [リレー・ヴォーカル 多国籍&実演他]

つづいてもサッカー関連もの。ネットオークションで発見したブツです。

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What A Happy Day by Frisbie And The Football Stars

1999年にイタリアでリリースされた楽曲。みつけた時「フリスビー・アンド・フットボール・スターズ」とあるので、イタリアではフリスビーが人気のあるスポーツで、プロ選手とかもたくさんいて、その人気選手とサッカーの人気選手が集まったチャリティなのかな、などと思ったでしたが、調べてみると「フリスビー」というのは、イタリアで活躍されていたナイジェリア出身のシンガー=Frisbie Omo Isibor氏のお名前でした。2005年4月に37歳の若さでお亡くなりになったそう。このフリスビー氏と、リベリア出身でイタリアのサッカークラブチーム=ACミランで活躍していたジョージ・ウェア選手が中心となり、ユニセフの活動支援のために企画されたプロジェクトです。ジョージ・ウェア氏は、1989年からつづく内戦で傷ついた祖国リベリアの為に「ジョージ・ウェア基金」を設立。リベリアのユニセフ親善大使も務めています。参加メンバーは…

Frisbie Omo Isibor, Amy Charles, Julia St. Louis , Ronnie Jones, Sandra Gunn, Sister Ngozi, Walter Ego

以上がHipHop畑ミュージシャンの方々。加えて "The Football Stars" として…

Ibrahim Ba, Oliver Bierhoff, Edgar Davids, Mimmo Di Carlo, Mohamed Kallon, Phil Masinga, Marcelo Otero, Ronaldo, Fabio Viviani, George Weah, Taribo West, Ivan Zamorano, Zinedine Zidane

例によってわたくしは知らない人が多いですが、ビッグネームな選手ばかりのよう。参考までに各選手の出身地を。

Ibrahim Ba(セネガル), Oliver Bierhoff(ドイツ), Edgar Davids(オランダ), Mimmo Di Carlo(イタリア), Mohamed Kallon(シエラレオネ・ケネマ), Phil Masinga(南アフリカ), Marcelo Otero(ウルグアイ), Ronaldo(ブラジル), Fabio Viviani(イタリア), George Weah(リベリア), Taribo West(ノルウェー), Ivan Zamorano(チリ), Zinedine Zidane(フランス)

動画はようつべのここ→http://www.youtube.com/watch?v=BXR8CZx6Qh4 歌いだしのコーラスが終わって最初にソロをとる赤いシャツで髪の毛2色の人がフリスビーさん。ブラジルのロナルド選手はわたくしでも顔わかった(笑。

楽曲は、Giorgio Tramacere, Luca Artina, Frisbie Omo Isibor 3氏の共作。上記画像は、イタリア盤5インチCDシングルのジャケ表裏(イタリアB.I.G. Music BIG 009 CDS)。同曲をミックス違いで4ヴァージョン収録(Night Extened Mix, L. & J. Mix, Night Radio, Original Album Version)。同内容で12インチ・アナログ・シングル(イタリアB.I.G. Music BIG 007)も出ていたようです。

で、前述のようつべ動画を観にいったらみつけてしまいました、前年1998年度のリリース分。

1998ff.jpg

Lively Up Africa by The African Football Stars

こちらが、このプロジェクト最初のリリースのようです。お題目はユニセフ支援チャリテイ。参加メンバーはミュージシャン組が…

Frisbie Omo Isibor, B.B.M. (Big Boss Man),Walter Ego

"The African Football Stars" として…

Ibrahim Ba, Omam Biyik, Manuel T. Dimas, Oumar Dieng, Joachim Fernandez, Mohamhed Kallon, Raul Phil Masinga, George Weah, Taribo West

各選手の出身地は…

Ibrahim Ba(セネガル), Omam Biyik(カメルーン), Manuel T. Dimas(南アフリカ), Oumar Dieng(ダカール), Joachim Fernandez(セネガル), Mohammhed Kallon(シエラレオネ), Raul Phil Masinga(南アフリカ), George Weah(リベリア), Taribo West(ナイジェリア)

動画はようつべのここ→http://www.youtube.com/watch?v=OmVZ2m8_DuY スカビートが気持ちいい元気な合唱曲です。ライヴ版→http://www.youtube.com/watch?v=ETr3CxG6mQo

画像は拾い物でわたくし未入手ゆえ詳しいことはわかりませんが、イタリア盤5インチCDシングル(イタリアDance Pool DAN 665962 6 CD)と12インチ・アナログ・シングル(DAN 665962 6)が出ているようです。

イタリア人主導でサッカーがらみと言うと、ずっと以前にご紹介した1985年サッカーUEFAチャンピオンズカップ決勝戦でのフーリガンの暴走、いわゆる「ヘイゼルの悲劇」犠牲者に捧げたSport Alive by THE EUROPEAN TEAM(http://nabe-t.blog.so-net.ne.jp/2007-09-03)ってチャリティ盤もありました。これの動画はようつべにもぜんぜんあがって来ないなあ…
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C@R131 英国 (How Does It Feel To Be) On Top Of The World (1998) [リレー・ヴォーカル 英国]

今回のはサッカーがらみ。1998年にフランスで行なわれたFIFAワールド・カップでのイングランド代表チームのオフィシャル・ソングとしてリリースされたこの楽曲。

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(How Does It Feel To Be) On Top Of The World by England United

参加メンバーは…

Echo and the Bunnymen, Ocean Colour Scene, Space, Spice Girls

曲を書いたのはエコバニのイアン・マッカロク氏と元スミスのギタリストで、この当時はソロで活躍していたジョニー・マー氏。オーシャン・カラー・シーンからはヴォーカリストのサイモン・ファウラー(Simon Fowler)氏のみ参加。Spaceってのはリヴァプール出身で1993年デビューの1960年代テイストな4人組バンド。こんな感じ→http://www.youtube.com/watch?v=ZUvHzvqp0W8

この楽曲のPVは→http://www.youtube.com/watch?v=lkUBz2v7oYE
ライヴ・ヴァージョン→http://www.youtube.com/watch?v=wscXJChXcDU

スパイス・ガールズはずっと歌いっぱなし。題材が題材なだけにスポーティ・スパイスことメル・C嬢ががんばっておられます。ジャケ裏に「このレコードのロイヤリティは、The Football Associationを通してSOS Children's Villages UKの活動のために寄付されます」と明記。UKシングル・チャート最高位9位。上記5インチ・シングルCD(London LONCD 444,570 204-2)には、歌入りとインストの2ヴァージョン収録。

この年のスパイス・ガールズは、ジェリ嬢が5月末に脱退を表明していた過渡期。この曲のPVがおそらく(再結成を除く)最後の5人によるパフォーマンスと思われです。ヴィッキー嬢は、この年の大会で初めてイングランド代表メンバーとしてワールド・カップ出場したデヴィッド・ベッカム選手と熱烈交際婚約中。PVでもかなり楽しげなご様子。

ちなみにこの1998年度大会で日本代表チームがFIFAワールド・カップに初出場(結果は一次リーグ3敗)。イングランドは一次リーグをルーマニアに次ぐ2位で通過後ベスト16でアルゼンチンにPK戦負け。この大会のTop Of The World に輝いたのは開催国=フランス代表チームでした。
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C@R130 日本 CBCラジオオールスターズ (2001,2002) [リレー・ヴォーカル 日本]

今回ご紹介するプロジェクトは、ネット社会が発達していなければ知らずにすんだ楽曲=ネトオクでみつけてしまったのでとりあえず入手しといたブツ(笑。名古屋に本社がある中部日本放送系列のラジオ局「CBCラジオ」開局50周年チャリティの一環としてリリースされたローカルなこの一枚。2001年9月2日リリース。

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Have A Nice Day Fifties ~虹のむこうへ~ by CBCラジオオールスターズ

CDジャケ裏に『このCDの売上げはCBCラジオ開局50周年チャリティー「子供を救おう!未来を守ろう!!」事務局を通して虐待を受けている子供たちのために使われます。』と明記されています。作詞/荒木とよひさ氏。作曲/中村泰士氏。編曲/かせだあきひろ氏。参加メンバーは、おそらく日頃CBCラジオでご活躍されているパーソナリティーやDJの方々なんでしょう…

伊藤敦基、伊藤秀志、遠藤浩子、我山亜希子、加藤小百合、加藤由香、神尾純子、唐沢夏子、岸明子、北野誠、沓名香緒里、久野誠、黒川慶一、小高直子、小堀勝啓、桜澤信司、沢朋宏、塩屋江里子、重松和代、重盛啓之、住田都史子、高見あゆ子、多田しげお、土屋順子、つぼイノリオ、戸井康成、中西直輝、中橋かおり、新美静代、野原寿乃、ハイヒール・リンゴ、早川敦子、原田伸郎、彦野利勝、平野裕加里、広瀬隆、福田知鶴、ボビー、丸山蘭那、宮本忠博、矢野きよ実、吉村明宏、若狭敬一、渡辺美香 (アイウエオ順)

ジャケ写真のつづき
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ずっと東京在住のわたくしには、知ってるお名前ちらほら。つぼイノリオさんとか原田伸郎さんとか。ただし昔からの中日ドラゴンズファンゆえ、80年代後半から90年代前半まで大活躍した名外野手=彦野利勝選手の名前には大いに反応しました。

音源、動画ともネット上みつからず。70年代によくありがちな明るめフォーク調歌謡曲色全開。いかにもAM局の昼下がりにお似合いな曲調です。Track2には、作者の荒木さんと中村さんがヴォーカルをとるヴァージョン、Track3にカラオケを収録。リリース元は、CBC Records (CBC-010902). Made in Nagoya Japanとなっています。ジャケ裏に「JASRACシール」が手貼りされているのがインディーチックでグー。

でこの企画、CBCラジオ・リスナーの皆様にけっこう好評だったらしく、翌2002年にも別楽曲をリリースしています。

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あ・り・が・と・う by CBCラジオオールスターズ

2002年9月1日リリース=CBC Records (CBC-020901)。今回は『このCDの売上げはCBCラジオチャリティー「子供を救おう!未来を守ろう!!」事務局を通して虐待を受けている子供たちのために使われます。』とジャケ裏に明記。作詞・作曲/広瀬隆氏。編曲・演奏/フェアバンクス。参加メンバーは、前回と半数くらいが入れ替わり…

青木まな、荒木とよひさ、安藤まり子、伊藤秀志、井上小百合、乙葉、加藤千佳、加藤由香、金村義明、神尾純子、北野誠、久野誠、小高直子、小堀勝啓、沢朋宏、重松和代、周防玲子、ダイノジ、多田しげお、立原啓裕、つぼイノリオ、戸井康成、土開仁美、中西直輝、中橋かおり、中村泰士、新美静代、ハイヒール・リンゴ、早川敦子、平野裕加里、平山綾、福田知鶴、藤本綾、ブラックマヨネーズ、平家みちよ、ボビー、丸山蘭那、宮本忠博、MEGUMI、メロン記念日、矢野きよ実、レポート・ドライバー(宇梶有美、太田聖子、大星幸子、岸明子、沓名香緒里、塩屋江里子、高見あゆ子、野原寿乃)、若狭敬一、渡辺美香 (アイウエオ順)

ハロプロ、ホリプロ所属のアイドル系女子の方々が多数参入されています。ジャケのイラストも当時モーニング娘。だった吉澤ひとみさんが担当。これは、アイドルものコレクターの方々には要注意盤なのではないでしょか。曲調は、カラオケで盛り上がりそうなデュエット歌謡形式で、女性パートを各アイドルさんが担当している模様です。どれが誰の声かはわたくしぜんぜんわかりませんけど。あと、落合監督シンパなわたくしは金村義明氏には反応しません(笑

Track2には、楽曲作者の広瀬隆氏がヴォーカルをとるヴァージョンを収録。こっちはアコギでしっとりなアレンジ。その昔「東京に原発を!」などの著書で話題になった作家さんと同姓同名なこの広瀬さん、調べてみると70年代後半にデビューした「めるへん堂」っていうバンドのリーダーさんでした。現在も地元で地道に活動をつづけられているご様子。Track3にはカラオケを収録。JASRACシール今回貼ってないのはプレス枚数増えたから?

このCBCラジオオールスターズ、なんとなくこれ以降もリリースしてそーな気がかなりするですが、あえて探さず、それでも縁あって出逢ってしまったら入手する、とゆー方向にしておます。

今回動画リンクなかったので、最後に「ラジオ」の歌ってことでこれを。ASIA名義の「ラジオスターの悲劇」→http://www.youtube.com/watch?v=K6sznATU1Zg
去年の来日公演でも演ってました。拡声器で歌い始めるジョン・ウェットン御大に椎名林檎姫をふと思ったわたくしでした。
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C@R129 英米 DRIVE MY CAR by R.A.D.D. (1994) [リレー・ヴォーカル 米国]

ザ・ビートルズのリマスター盤がようやく発売されて盛り上がっている今日この頃。わたくしももちろん購入して一通り聴きました。良い出来だと思います。各楽器や歌声の分離が良くなり、全体にライヴ感が増してました。しばらく眠っていたビーヲタの血がまた騒ぎだします。しまったまんまだったキャピトル盤のリマスターBOXなぞひっぱり出してきて聞き比べたりしています(笑。でもこのBOXセット、箱がでかすぎません?レコード・ラックにも入らないしCDラックをや。サイドボードにブランデーの瓶かなんかと一緒に並べておけ、とでも言うのでしょうか?結局盤だけ全部出してCDラックに入れて箱は押入れにしまっちゃいました。あと、これを機会に「LOVE」とかいうインチキ・アルバムがさっさと廃盤になるといいなあ(笑

そんな時流に乗って今回はご紹介しそびれていたこの曲を。

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Drive My Car by R.A.D.D.

R.A.D.D.というのは正式には、"Recording Artists Against Drunk Drivers"。つまりは飲酒運転撲滅を啓蒙する団体です。1986年に設立されて、有名芸能人らの啓蒙メッセージを米国のテレビ/ラジオで流していました。現在では賛同する有名人も増えて"Recording Artists, Actors and Athletes Against Drunk Driving"という名称になっています。そんな団体のテーマ曲に選ばれたのがビートルズの名曲=「ドライヴ・マイ・カー」。そう言えば1993年のポールの世界ツアー、オープニングがこの曲でしたねえ。12月には日本にも来て、生で本人が歌うこの曲を聴けるとはっ!てんで感激したっけなあ。ポールはこの曲の使用権をRADDに無償で提供したそうです。1994年2月7日に米国ABCテレビの「American Music Awards」内で豪華メンバーによるプロモ・ビデオが放映されました。ポールの出演場面は、同年1月下旬にロンドンで収録。ようつべで見れます→ http://www.youtube.com/watch?v=Cp41SH-fdLA

参加メンバーは…

Paul McCartney, David Crosby, Graham Nash, Little Richard, Ringo Starr, Los Lobos, Clint Black, Lisa Hartman Black, Travis Tritt, Trisha Yearwood, Phil Collins, Melissa Ethridge, Bret Michaels, "Weird Al" Yankovic, Clarence Clemons, Julian Lennon

英国人けっこういるけど企画自体が米国主導ぽいので米国枠で。ビートルズ関連でポールとリンゴとジュリアンという夢の競演。クレジットされていませんが、リンゴと一緒にいるのはこの年(1994年)の1月14日に心不全で亡くなってしまったリンゴとジョンの飲み友達=ハリー・ニルソン(Harry Nilsson)さんではないでしょか。2コーラスめは米国カントリー畑の大御所と女優さんを起用して米国一般在田舎庶民層へのアピールもはずさない所がさすがアメリカンビズ。一番飲酒運転しそーなのってこの層だもんね。故マイケル・ジャクソン氏のヒット曲替歌で一世を風靡したアル・ヤンコビックさんも参加してます。

この音源および動画は一般的には販売されず、RADDに寄付という形のメール・オーダーのみで、カセット・テープとビデオ・テープが頒布されたようです。画像は、プロモーション用に1994年に配られた"R.A.D.D. Awareness Message Project, Vol.3"(RADD-1994) というCD盤のジャケ表裏(拾い物)。多くの芸能人のメッセージと供にこの楽曲の音源が収録されているらしいですが、残念ながらわたくし未入手です。

その後いつ作られたのかは不明ながら、上記動画のカントリー勢が「and maybe I'll love you~」とリットした後に、廃車置場でヒップホップ系の方たち大勢の踊りをバックにたぶん有名な方であろうがたいのいいラッパーの人が元気にラップしまくった後短い早弾きギターソロ、という40数秒のシークエンスをはさんでドラム・フィル~フィル・コリンズさんの歌、という構成のロング・ヴァージョンも作られています。「やっぱりならず者っぽいこっちの層にもアピールしとかなきゃな」と思ったのですかね(笑。その動画はニコニコのここで見れます→ http://www.nicovideo.jp/watch/sm2798839 。ラッパーの人とギターの人が誰かわかる方いましたら教えてください。

R.A.D.D.は現在でも盛んに活動しているようで、オフィシャル・ページ→ http://www.radd.org/index.php の芸能人ページでは、ポールをはじめエアロスミスやチープ・トリック、ロン・ウッド氏などたくさんの賛同アーティストたちのメッセージが聞けます→ http://www.radd.org/cwo/About_RADD/RADD_PSAs こういうのって、いかにも酒飲み、ってイメージの人が言うほど効果がありそーだよね(笑
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