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Ring 'O Records リングオーと赤べことオセアニア市場 02 [リング・オー・レコード]

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1974年、ロバート・スティグウッド氏はビートルズを題材としたミュージカルの制作に関わります。「ジョン・ポール・ジョージ・リンゴ&バート(John, Paul, George, Ringo...and Bert)」と題されたその舞台劇は、クオリーメン時代にメンバーだったという架空の人物=バートくんの回想録という体裁で、ビートルズの結成から分裂、そして架空の再会、という物語だそう(わたくし未見です)。5月にリヴァプールの劇場から始まった英国での一般公開では、73年のアルバム「リンゴ」で半端に実現したビートルズ再結成を期待する気運とも合致し、リヴァプールで8週間上演された後、ロンドンで一年間のロングラン、英国の演劇評論家達から「Best Musical of 1974」に選ばれています。ちなみに、この作品の脚本を担当した劇作家ウィリー・ラッセル(Willy Russell)氏は、デヴィッド・ヘンチェル氏が音楽を担当した83年公開の映画「リタと大学教授」(元々は舞台劇)の作者でもあります。

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劇中歌の歌唱を担当したのは、スコットランド出身で当時はまだ駆け出しだった女性シンガー=バーバラ・ディクソン(Baebara Dickson)嬢。画像は2016年に英国のGonzo Multimediaから出たリイッシューCD( CTVPCD007)。オリジナルはもちろん英国RSOからのアナログLP盤(米国未発売)。

そんな回顧趣味の作品を、その時期のビートルたちがよく許したな、とも思えるのですが、アップルの混迷期に加えてビートルズの楽曲出版社である「ノーザン・ソングス」が人手に渡ってしまっていた時期でもありコントロール不能だったみたい。更に、アラン・クライン氏がアップルで行なった粛清により、永年ビートルズに寄り添っていたピーター・ブラウン(Peter Brown)氏がスティグウッド氏の会社に移っていた、という経緯も影響していたのかもしれません。

スティグウッド氏はアラン・クライン氏時代のアップルからビートルズ楽曲29曲の演劇での使用権を買っており、74年11月にはすでに「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」の楽曲を用いたミュージカル・ライヴ・ショー(後に映画化されるのとは別物)も企画/制作。こちらは米国ニューヨークのブロードウェイで公開し、ジョンと当時の恋人メイ・パン(May Pang)嬢がプレミアに招かれていたりもしていました。

ニューヨーク在住のジョンは面白がっていたようですが、ポールとジョージは自分達不在のビートルズ商売にお冠状態。74年8月「ジョン・ポール・ジョージ・リンゴ&バート」ロンドン初日の舞台を鑑賞したジョージは、実在の自分を舞台上で他人に演じられることに我慢ならなかったらしく途中で席を立ち、劇中で使われていた「Here Comes the Sun」の使用許可を取り消し(ジョージは68年に自身の出版会社「Harrisongs Ltd」を立ち上げ、以降の自身の楽曲を管理していました。ただし、同時期に発売されたオリジナルキャストによるサントラ盤では残ったまま)ます。また、テレビでダイジェストを観たポールも、ストーリーが事実とかけ離れているとして、75年の映画化申請を却下しました。

ポールとジョージは明らかにスティグウッド氏を嫌っていたようですが、リンゴはどうだったのでしょうか。
リング・オー始動と自身の独立に際してポリドールを選び、北米に関してはアトランティックと契約、ソロアルバムのプロデューサーにビージーズを甦らせたアリフ・マーディン氏を起用、リング・オーにおける豪州アーティストの多さと豪州・オセアニア市場の重視、ディスコサウンド的アプローチなどなど、スティグウッド氏のやりかたを参考にしていたようなふしも少なからず窺えます。

もちろん「NEMS」での一件から、「反スティグウッド」はビートルズの総意ですから、リンゴも72年のロンドン交響楽団版ではアンクル・アーニー役で参加していた「トミー」の映画版には参加せず(または呼ばれず?)、制作がRSOを離れ、73年(日本では76年)公開で好評を博した「マイウェイ・マイラヴ(That'll Be the Day)」と同じデヴィッド・パットナム(David Puttnam)氏制作となった、「トミー」と同じくケン・ラッセル(Ken Russell)監督、ロジャー・ダルトリー氏主演75年公開のロックオペラ映画「リストマニア(Lisztomania)」には出演するなど、RSOとの直接的な関わりは避けていたようにも見受けられます。

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当時、俳優業や映画制作にも大いに色気を出していたリンゴでしたから、レコード制作で順調にヒットを飛ばし、映画制作でもひと山もふた山も当てて潤沢な資金を蓄えているであろうRSOの動向は気にかけていたでしょうし、懇意にしているクラプトンやキース・ムーン氏もRSOの下で順調にキャリアを積んでいたので、身近な成功者の例としてビジネスモデルにしていた可能性はあると思います。

あるいは、リンゴ個人は気が進まないながら、73年にアラン・クライン氏との契約完了と告訴合戦以降、リンゴの財務アドバイザー=マネージャーに就任したリンゴより7歳年上(1933年生まれ)のヒラリー・ジェラード(Hilary Lester Gerrard)氏のサジェストがあったのかもしれません。ヒラリー氏はリンゴのマネージャーに就任以降「失われた週末」時期を含めてずーっとリンゴを支え続け、91年のアップル再始動時にもアップル各関連会社の取締役員に名を連らねる(2015年辞任・おそらく年齢的な理由)ほどリンゴと良好な関係を保っています。本業がファイナンシャル・コンサルタントですから、近年マスコミを騒がせたリンゴとTax Havenの問題にも一役噛んでいそう。

さて、スティグウッド氏ですが、76年に大ヒットしたホラー映画「キャリー(Carrie)」に敵役として出演し、その年の7月には、米国の弱小レーベル「Midland International」からビルボード第10位に着くまでにヒットした「Let Her In」というミィディアムテンポのバラード曲を歌っていたジョン・トラボルタ(John Travolta)氏という男前アクターに目をつけ契約、程無く黄金時代を迎えることになります。

77年には、すっかりディスコ色に染まったビージーズの音楽に乗せてトラボルタ氏を一躍スターダムに伸し上げた映画「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever)」、翌78年には、トラボルタ氏の相手役にオリビア・ニュートン=ジョン嬢を配し、ビートルズ襲来以前の米国ハイスクールの青春を描いたミュージカル映画「グリース(Grease)」と、両作品とも映画もサントラ・レコードも大ヒットという黄金期を迎えます。

そんなスティグウッド氏が78年、もう一つビートルズがらみの映画を制作します。「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」。日本公開時は「サージャント・ペッパー」という、何と言うか本家から微妙に距離を置いたような煮え切らない邦題で79年6月に封切られました。

主演はビージーズと、76年リリースのアルバム「Frampton Comes Alive!」で一躍スターダムに伸し上がったピーター・フランプトン氏。スティグウッド氏と並んでこの映画の製作総指揮を務めたディー・アンソニー(Dee Anthony)氏も米国内で重鎮なタレント・エージェントで当時フランプトン氏のマネージャーでもあり、映画の宣伝でビージーズとフランプトン氏のどちらを上に置くか、というしょーもない契約で告訴沙汰となり、結果フランプトン氏が上、という不毛な争いもありました。

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前作「ジョン・ポール・ジョージ~~」で実在ビートルズをストーリーに絡ませるとややこしくなる、ということを学んだらしいスティグウッド氏は、映画脚本執筆未経験だった音楽ライター、ヘンリー・エドワーズ(Henry Edwards)なる人物に当該アルバムの歌詞からイメージを膨らませたストーリーを無理やり書かせます。出来上がってきたお話は、乱暴に言えばビートルズのアニメーション映画「イエロー・サブマリン」の大筋を現代風にして更に下世話にしたような、ひたすら脳天気なロック・ミュージカルという仕上がり。

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ただし、音楽監督にオリジナル版プロデューサーであるジョージ・マーティン卿御大の降臨を成功させます。マーティン卿も最初は断る気満々だったのですが、奥方のジュディ夫人が「引き受けなければ他の人がやるでしょ?それでダメにされても黙って見ている事しか出来ないのよ?」というお言葉と、スティグウッド氏の「好きにやっていい」という約束を信じて引き受けます。
結果、映画は商業的に小ヒット、サントラはミリオンは行ったものの中ヒット、という顛末でした。

マーティン卿のご参加で幾分敷居が下がったのか、出演ミュージシャンにはビートル界隈のお名前もちらほら見受けられます。本編でも重要な役で登場するビリー・プレストン氏、「失われた週末」仲間のアリス・クーパー氏。本編フィナーレでは著名ミュージシャン=スペシャルゲストを集めて表題曲を笑顔で仲良く大合唱するという共感性羞恥満開なシークエンスがあるのですが、一緒にインドに行ってギターテクを教えてくれたドノバン氏、アップル所属だったジャッキー・ロマックス氏、プラスティック・オノ・バンドだった(この頃はもうイエスの正式メンバー)アラン・ホワイト氏、ジョージと仲良しなゲイリー・ライト氏の名前が見受けられます。

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上画像は、そのアルバムからカットされ全米15位まで上がったロビン・ギブ氏名義の「Oh!Darling」日本盤です。邦題が「オー・ダーリング」となっていることにご注目。「オーダーリング」とか言われると、恋人に超高価な婚約指輪でも贈ろうとしている男のラブソング?とか思っちゃいます。英語習いたての中一男子みたいなローマ字寄り読みは、当初「悩殺爆弾」というイケてる邦題を付けたのに、すぐに「チェリー・ボンブ」という、えっ?ボンブ?そっかそれってボンブだったんだ…とゲシュタルト崩壊を呼ぶ、ほぼ同時期リリースでパンクロックにも分類されていた肌露出多めのティーンズ・ガールズ・バンド=ランナウェイズ(The Runaways)のデビュー曲「Cherry Bomb」を思い出させてくれます。

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本家がそう名乗るなら日本語版カバーも、それに倣わざるをえません。
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ただここで、あ、なるほどな、と思わされた史実をひとつ。78年当時、日本音楽界では一時代築かれていた沢田研二(ジュリー)氏が5月に「ダーリング」という新曲をリリース。作詞は大御所、阿久悠氏、オリコン週間1位、年間22位のゴールドディスクという大ヒットです。

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で、ジュリーの所属レコード会社は日本ポリドール、ビージーズも同じ、ロビン・ギブ氏のシングルリリースは7月でした。となると、ロビン氏より数倍売れる(た)であろうジュリーの表記に忖度せざるをえない=ジュリーの曲が「Darling=ダーリング」なら、この曲の表記も「Oh Daring=オー・ダーリング」でしかるべき、という思考が働いたのではないか、と邪推しました。

閑話休題。そういった感じでRSOレーベルは78年、週間ビルボードチャート1位を取った19曲のうち8曲のリリース元であり、21週間連続トップの座という快挙を成し遂げますが、やり手業界関係者の王道でもあるピンハネ疑惑により1980年にビージーズから、スティグウッド氏とRSOレーベルに2億ドルの訴訟を起こされ結果不明のまま和解で終わります。ここでレーベル・ビジネスを諦めたらしいスティグウッド氏は83年までにRSOレーベルをポリグラムに売り払い、後は映画とミュージカル舞台で時折話題を提供しつつ、2016年1月4日ロンドンで、81歳で鬼籍に入られました。Rest In Peace.

この項の最後として、RSOレーベルお馴染みの赤べこマークですが、御本人の弁として「レーベル発足でロゴを考えていた頃、ザ・フーと一緒に日本にいた時、日本人の友達が健康と幸運の象徴である張り子の牛をくれてピンときた」とおっしゃっていますが、皆様御存知の通りザ・フーの初来日は2004年です。RSOの始動は74年ですから、順当に考えて72年から74年までの三年間に三度来日していたビージーズの日本公演時の出来事だったと思われます。


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