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Ring 'O Records 01 David Hentschel 01 [リング・オー・レコード]

去る4月28日のサー・ポール・マッカートニー武道館公演を観て、ビートルズをずっと聴いてきて良かったなあ、とえらく感動していたら、翌日に「A is for Apple VOL.1 1966-1968」という凄まじく詳細な APPLE Corps の研究本が届き、パラパラめくっていたら、なんだか無性にビートルズ関連の文章を書きたくなり、突然復活しました。

これがその本。
ハードカバー厚さ約5センチ、686ページ、写真はすべてカラーという労作です。

aisforapple.jpg

何について書こうか、といろいろ考えたのですが、ビートルズ関連は、コレクション、楽器、演奏、追っかけ、エトセトラ…たいがいの分野で詳細に研究されている方のサイトやブログがみつけられます。
それならうんとニッチな部分で、と考えて思いついたのが Ring O' Records 。70年代半ばにリンゴ・スターが設立したレーベルです。

このレーベル名を冠して日本盤が出たアーティストが一名しかいないこと、リンゴ自身がこのレーベルから一枚もリリースしなかったことなどから、とくに日本では、リング・オー・レコーズの知名度は超低いみたい。今回ご紹介するアーティスト「デヴィッド・ヘンチェル」でググると、わたくしが15年前くらいに作って放ったらかしのサイトが1ページ目にヒットするくらいの注目度です(笑

というわけで、これからヒマをみつけてぼちぼちと、 Ring O' Records からリリースされたレコーズとアーティストのあれこれを、わたくしがみつけた、ためになる他サイトさんへのリンクも織り込みながら、ご紹介していきたいと思います。

まずは、Ring O' Records の概要です。2004年で更新が止まっているこのサイトさんが見やすいです。

http://www.rarebeatles.com/ringorec/ringo.htm

Ring O' Records というレーベル名が初めて公になったのは、1974年9月20日、英ポリドールにより、近い将来リンゴが設立するレーベル=Ring O' Records を配給する予定がある、と発表されたときでした。ただし、RING O という呼称とレーベルロゴにもなった電話のダイアルを模したロゴマークは、1973年7月26日にリンゴが設立した音楽出版会社=Wobble Music Ltd.のロゴとして、すでに以前から使われていたようです。新レーベル名を決めるにあたってはジョン・レノンのサジェストがあった、とする文献もあります。ちなみに、その2週間前の9月6日には、ジョージ・ハリスンが自身のレーベル=Dark Horse の設立を発表していました。

Ring O' Records からの初リリース、デヴィッド・ヘンチェル David Hentschel のアルバム「Startling Music (ST-11372)」最速リリースはアメリカで、1975年の2月17日。ST というレコード番号からもわかるように、米キャピトルからの配給でした。同時にシングル盤「Oh My My c/w Devil Woman (4030)」もリリース。主要音楽誌や一般誌にも告知広告をうち、けっこう話題となりました。

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1975年2月15日付Billboard 誌の広告

本国イギリスでは、遅れること約一ヶ月の3月21日に、まず同カップリングのシングル(2017 101)を、アルバム(2320 101)はアメリカ盤から丸々2ヶ月遅れの4月18日でした。こちらの配給はもちろん英ポリドール。

2017101A.jpg

新レーベルを発足して記念すべき初アーティストをリリースしたというのに、リンゴが雑誌インタビューなど本格的にレーベルのプロモーション活動を開始したのは、1975年4月初旬から。ビートルズ史的には会社登記された1975年4月4日が正式発表の日ということになっています。イギリスでのアルバム発売に合わせた、と言えばそれまでですが、このへんのグダグダさ加減が、後のレーベルの行く末を早くも暗示しているかのようです。

日本ではずいぶん遅れて、1975年6月1日にシングル(DW1091)が、同年7月1日にアルバム(MW2117)がポリドールよりリリース。少なくとも当時のML誌には、ポリドールからの白黒広告もあったし、シングル、アルバム共にレビューも載っていた記憶があります。ちゃっかり日本語のロゴなんかも作っちゃって、それなりに宣伝されてはいました。

ringologo.jpg
DW1091A.jpg
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DW1091L.jpg

そんな記念すべきリング・オー・レコーズ第一弾アーティストのデヴィッド・ヘンチェル David Hentschel さんとは、どんな方なのでしょう。

hentschel.jpg

オフィシャルサイトをどうぞ。

http://www.thekeyboard.co.uk/

1952年1月30日サセックス生まれのデヴィッドさん。17歳からロンドンのトライデント・スタジオで働き始めます。初仕事は、1969年7月のデヴィッド・ボウイ「Space Oddity」セッションでのお茶汲みでした。その翌年にジョージの「All Things Must Pass」セッションにエンジニア=ケン・スコットのアシスタントとして参加(クレジットはされていません)。1972年のポールとウイングスによる「Red Rose Speedway」セッションでも、ボーカルやその他細々としたオーバーダブに立ち会った、とご本人が申しております。

1973年にトライデント・スタジオにARPシンセサイザーが導入されたのをきっかけにシンセにのめりこみ、今で言うマニピュレーター的お仕事で頭角を現します。その一つの頂点と言えるのが1973年10月にリリースされたエルトン・ジョンの名作アルバム「Goodbye Yellow Brick Road 」の一曲目「葬送〜血まみれの恋はおしまい(Funeral for a Friend/Love Lies Bleeding)」。冒頭のARPシンセサイザーは彼の演奏で、ミュージシャンとしてもクレジットされています。更にアルバム全体のエンジニアとして、1973年グラミー賞ベスト・エンジニアード・レコーデイング(ノン・クラシック)部門にもノミネートされました。ちなみにその年受賞したのは、こちらもARPシンセを随所にフィーチャーしたスティヴィー・ワンダーのアルバム「Innervisions」でした。

フリーランスのお仕事も増やしたいと思っていた頃、ちょうどリンゴが自身の新レーベルのアーティストを探していることを知り、デヴィッドさんのマネージメントをしていた人が、アップルのニール・アスピナル氏と知り合いだったこともあり、デモテープがリンゴの耳に届きます。その内容は、リンゴの1973年の大ヒットアルバム「Ringo」収録曲をシンセサイザーでインスト演奏したもの。これをリンゴはたいそう気に入り即契約。1973年9月にジョン・レノンから譲り受けたアスコットのスタジオ(アルバム「Imagine」の録音風景で有名ですね)、その名も Startling Studios にわざわざ ARP2500 を導入し、1974年9月にレコーディングが始まりました。

プロデュースはデヴィッド本人と John Gilbert という人。この人がデヴィッドさんをニール・アスピナル氏経由でリンゴに紹介したデヴィッドのマネージャーさん。IMDbで調べると、60年代から活動している英テレビ番組の劇伴音楽プロデューサーぽい方のよう。ドラムとギター、バンジョーに数人雇った以外は、すべてデヴィッドのシンセでの演奏、アレンジと録音エンジニアも本人という、身内で固めたこじんまりとした録音だったようです、出来上がった音は、こんな感じ。

https://www.youtube.com/watch?v=MeYxavdRwrI
https://www.youtube.com/watch?v=LJZqyhFoSO0

想定外に長くなりそうなので、いったん切ってつづきます。

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