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Ring 'O Records リングオーと赤べことオセアニア市場 01 [リング・オー・レコード]

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ロバート・スティグウッド(Robert Colin Stigwood)氏は1934年オーストラリア生まれ。21歳の頃に英国へ渡り、50年代末に演劇関連のマネージメントビジネスを始めます。俳優に歌を唄わせてレコードを発売する仕事でヒットを放ち、レコード会社に雇われていない独立したレコード・プロデューサー(原盤制作・管理者)となります。その後も浮き沈みはあるものの英国と豪州を股にかけて地道に演劇や音楽関係の仕事をつづけ、66年、英国で最も早い独立系(インディーズ)レコードレーベル(ここで言うインディーズとは、既存のレコード会社のお金に頼らず自ら資金を出してレコード原盤を作り原盤権を得た上で、その音源を既存レコード会社に貸与または供与するシステム)「リアクション・レコーズ(Reaction Records)」を立ち上げます。

レーベル最初のリリースはザ・フーの「恋のピンチヒッター(Substitute)」のシングルで66年3月のリリース。配給元は英国がポリドール、米国ではアトランティック系列のアトコ(ATCO)でした。前例無き試みでもあったため法的契約上のいざこざ等をもなんとか克服し、同じ頃、スティグウッド氏が契約していた2つのバンドメンバーが合流して結成されたクリーム(Cream)とも契約。彼らのファーストアルバム「フレッシュクリーム(Fresh Cream)」もリアクションからリリースされました。

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上画像は当時英国ではリアクションからリリースされたザ・フーの日本盤シングル(ただし2017年にリイッシューされたCDシングルの復刻ジャケット=UICY-78497)。

翌67年、ツアーをやめてしまい自分の仕事上の存在感が希薄化していることに思い悩むビートルズのマネージャー=ブライアン・エプスタイン氏が、最近英国音楽ビジネス界隈でめきめき頭角を現わしていたスティグウッド氏とコンタクトを取り、エプスタイン氏の会社「NEMS」に引き入れます(当時の英国ではまだ非合法だったゲイ・コミュニティで顔見知りだった、という話もあります)。

同じ頃、豪州で活躍中だったビージーズの元締め=ギブ兄弟の父親、から「NEMS」にデモテープが送られ、それを聴いて興味を持ったエプスタイン氏は、豪州でビージーズとは旧知だったスティグウッド氏を担当に付けます。アーティスト(とくにビートルズ)本位でビジネス的には穏便路線だったエプスタイン氏と、儲かりそうと思えば法的問題二の次であの手この手と精力的に動き回るスティグウッド氏との相性は良くなかったようですが、人生お疲れ気味のエプスタイン氏はスティグウッド氏のビジネスセンスを認めざるを得なかったのか、当時抱えていたアーティスト・マネージメントのうちビートルズと、同じくらい長いおつきあいのシラ・ブラック(Cilla Black)嬢以外すべてをスティグウッド氏に任せることにしました。

そんなさなかの67年8月27日、エプスタイン氏が急死してしまいます。関係者誰もがあたふたする中、期日内に一定の株を買い取れれば「NEMS」を手中に出来るスティグウッド氏でしたが、そこで猛反発したのがビートルズの各メンバーでした。エプスタイン氏存命時から節税対策等の意味もあり、自分たちで采配できる会社=「アップルコア(Apple Corps Limited)」の構想を練っていたビートルズは、これ以上誰かの下で働かされるのは御免だ、とばかりに反旗を翻します。2000年代のインタビューでポールは、エプスタイン氏存命中にスティグウッド氏が「NEMS」の乗っ取りを謀っていることに対してこう語っています。「もしもそうするならひとつ約束する。これから出るすべてのレコードに「God Save the Queen(英国国歌)」を調子っぱずれで収録してやる。もし奴がそうするなら、奴が手中にするのはそういうものだ」と。その辺りの状況判断も長けているスティグウッド氏は、ビートルズと同じくらい有望なアーティスト=ビージーズやクリームを引き連れて「NEMS」を離れ、67年中に自身の名を冠した制作プロダクション「Robert Stigwood Organisation」を立ち上げます。

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それに伴いリアクション・レコーズもフェードアウトするのですが、リアクションでの経験がザ・フーのマネージャー氏に66年末、ビートルズのアップルよりも一年以上も早く、ザ・フー自身のレーベル「トラック・レコーズ(Track Records)」を立ち上げさせる糧ともなりました。トラック・レコーズは初期ジミヘンの英国での配給元になったり、68年、ジャケットの問題でEMIからリリース拒否されたジョンとヨーコのアップルでのアルバム「トゥ・ヴァージンズ(TwoVirgins)」の英国での配給を担当したりもしています。

ビージーズやクリーム解散後の各メンバーのマネージメントは継続しつつ、自身の原点を振り返ったのか演劇方面に再び手を拡げたスティグウッド氏は、68年「ヘア(Hair)」、70年「オー!・カルカッタ!(Oh! Calcutta!)」と舞台ミュージカルのヒット作制作に関わり、71年に自身もプロデューサーとして名を連らねた「ジーザス・クライスト・スーパースター(Jesus Christ Superstar)」というロック・ミュージカル作品が、舞台、映画、サントラ・レコードとマルチに大ヒットとなります。その後、75年のザ・フー69年発表のアルバムを原作としたロック・オペラ映画「トミー(Tommy)」も大ヒットという具合に、今で言うマルチメディア的戦略がスティグウッド氏の王道パターンとなります。

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そんなスティグウッド氏が満を持して73年に自身のレコード・レーベルを再び立ち上げたのが、赤べこマークでのお馴染みの「RSOレコード(RSO Records)」。主となる所属アーティストは、長年おつきあいで原盤権を握っているビージーズと元クリームの面々、そこに「ジーザス・クライスト・スーパースター」で人気者となったイヴォンヌ・エリマン(Yvonne Marianne Elliman)嬢なども加わり、英米のヒットチャートを賑わせ始めます。

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68年にビートルズがアップル・レーベルを始めて以降、音楽業界ではアーティストやプロデューサーのような業界関係者が独自資金による原盤制作提供会社、所謂インディーズ・レーベルを立ち上げることが目立って増えていきました。

有名どころを挙げていくと、ビートルズの楽曲出版業務を最初期から担当(そして69年にメンバーの意に反して版権を第三者に売り払ってしまった)していたディック・ジェームス(Dick James)氏がデビュー前のエルトン・ジョン氏との出会いを発端にして「DJM Records」を立ち上げたり、ハーマンズ・ハーミッツ、ドノヴァン氏やジェフ・ベック氏のプロデューサーとして名を上げたミッキー・モスト(Mickie Most)氏が自身のプロデュース作をメインとするレーベル「Rak Records」を作ったり、ムーディ・ブルース(The Moody Blues)の「スレッショルド(Threshold Records)」、元ボンゾ・ドッグ・バンドなどのマネージャーだったというトニー・ストラットン-スミス(Tony Stratton-Smith)氏が立ち上げた「カリスマ(Charisma Records)」…

70年代になるとベロマークでお馴染みの「Rolling Stones Records」、ジェファーソン・エアプレインの「Grunt Records」、ディープ・パープルは「Purple Records」、エルトン・ジョンが「Rocket Records」、EL&Pの「Manticore Records」、スモール・フェイセスやELOのマネージャーであったドン・アーデン(Don Arden)氏が設立した「Jet Records」、レッド・ツェッペリンの「Swan Song Records」などなど…

そんな独立系レコード会社乱立期にあって「RSOレコード」は、間違いなく大成功を収めている側にいました。リング・オー発足から終焉を迎える75-78年時期は、ビージーズのディスコ路線への変更がブームを作り、クラプトンの再起作「461・オーシャン・ブールバード」から続く諸作も順調にヒットを飛ばし続け、リング・オー再起動なこの頃、すなわち77-78年は、あの映画「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever)」で一大ブームを巻き起こしにかかる時期と重なっています。

DWQ6007a.jpgDWQ6007b.jpgDWQ6007c.jpg76年9月4日付ビルボード第1位曲


ずいぶん長くなってしまったので、つづきます。


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