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東芝音工アップルレーベルの黒い内袋について [ビートルズ関連@音源]

昨年のことになりますが、某オークションサイトでビートルズ関連の国内盤シングル百数十枚のアソートを落札しました。出品者ノーチェック、ジャンク扱いなリサイクル関係業者さんからのセット出品だったのですが、何枚かに分けた集合写真で良心的にジャケをすべて見せてくれている中に気になるブツを発見。

知っている人には超レアだけれど知らなければ気づかないような重箱の隅アイテムで、出品者の客寄せトラップ(落札時にはシレッと通常品を送ってくる)も疑ったのですが、とりあえず入札。他に気づいた方も何人かいたようで、その手の出品としては幾分高めなビット=そのアイテム単品で出ていたらとてもその価格では無理、というラインで落札出来、送られてきたダンボール箱中にしっかり写真通りのブツも入っていて、めでたしめでたしという顛末。

もちろん、お目当てアイテム以外のブツはすでに持っているものばかりで、オデオン盤330円ものから「ウーマン」「セイ・セイ・セイ」くらいまで、説明通り全体的に埃っぽく、ヨレヨレのビニール袋には日本各地のローカルなレコード店名が入っていたり、たまに赤盤あったりと、本当にノーチェックでの放出だったみたい。
そしてもちろんダブリだらけ。おそらく「ビートルズ」というくくりだけで業者さんが機械的に分けたのでしょう、「レット・イット・ビー」は400円ステレオからEMI表記、77年の再発まで20枚以上、「イエスタデイ」「アナザー・デイ」「マイ・スウイート・ロード」なども各10枚以上という感じで、入手時に一応定価や赤盤とかチェックして以来、送られてきたダンボール箱にしまいっぱなし状態でした。

で先日、状態のいいものくらいはビニール袋取り替えておこっか、と引っ張り出したときにみつけてしまいました。

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日本でアップルレーベルから最初のシングル盤がリリースされたのは1968年12月5日、メリー・ホプキンの「悲しき天使」(AR-2160)でした。この曲は日本でも大ヒットしたので今でも中古屋さんで頻繁にみつけられるインフレ盤です。

このタイトルのレコード盤を収めるアップルロゴ付き黒い中袋(カンパニー・スリーブ)がリリース初期と思われる盤では「両面穴あき」である、ということに気づいておられる方は多いでしょうが、そこにこだわって言及される方はあまりいないみたい。

わたくしも、アップルアーティストの、たとえばジ・アイビーズ「メイビー・トゥモロウ」(AR-2198 69年3月10日リリース)を入手したとき、「両面穴あき」中袋に収められていて、ああ、アップル出たての頃はこっちの中袋だったんだなー、くらいにしか思っていませんでした。

で、今回送られてきたシングル盤群を吟味中、東芝アップルレーベルからは初のビートルズ名義シングル盤リリース「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」(AR-2207 69年3月10日)、つづく「ゲット・バック」(AR-2279  69年6月1日)、「ジョンとヨーコのバラード」(AR-2301 69年7月10日)の3タイトルが「両面穴あき」中袋姿でご丁寧にも三タイトルとも二枚ダブリで含まれていたのでした。

それまでビートルズのリリースで「両面穴あき」中袋に遭遇したことが無い、と言うか気にしたことがなかったので、この一件はショーゲキ的でした。

ここで整理しておくと、これが日本盤「両面穴あき」中袋
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スキャン背景も白なので実感しにくい方用にビートルズの「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」のジャケをかませます。
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これは英国盤のレギュラースリーブ
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こっちは米国盤
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こちらは日本盤アップルシングルで最も一般的な「片面穴あき」中袋
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というわけで、英米では、と言うか世界的にシングル盤収納袋(いわゆるカンパニー・スリーブ)は「両面穴あき」が主流のようです。袋状に組み立てた後、一気にスポーンと丸型を抜けばいいのですから正しく合理的です。
一方日本では、大切なレコード盤を収納する袋、という「ちゃんと保護するための袋」概念が強いのか、ビートルズ以前からどのメーカーも「片面穴あき」中袋が主流でした。
こちらはおそらく、袋状に組み立てる前に片側の穴をあけておき、型紙状から袋状に組み立てる、という工程でしょう。そちらがポピュラーだったということは、その作業システムのラインがレコード製造流通業界で全面的に普及していたということですから、「両面穴あき」は却ってイレギュラーで手間がかかったのかもしれません。
発売当初の「両面穴あき」中袋は、東芝アップルもとりあえず英米アップルのパッケージングに倣っていた、と考えるのが妥当かと思います。

「悲しき天使」以来「ジョンとヨーコのバラード」まで、東芝音工からアップルレーベルでリリースされたアップルアーティストのシングル盤は

AR-2160 悲しき天使 by メリー・ホプキン 68/12/5
AR-2168 サワー・ミルク・シー by ジャッキー・ロマックス 69/2/1
AR-2169 イエロー・サブマリン by ザ・ブラック・ダイク・ミルス・バンド 69/2/1
AR-2198 メイビー・トゥモロウ by ジ・アイビーズ 69/3/10
AR-2207 オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ by ザ・ビートルズ 69/3/10
AR-2231 ひとりぼっちの道 by トラッシュ 69/4/1
AR-2254 想い出のキャロライナ by ジェームス・テーラー 69/5/1
AR-2255 グッドバイ by メリー・ホプキン 69/4/1
AR-2279 ゲット・バック by ザ・ビートルズ 69/6/1
AR-2301 ジョンとヨーコのバラード by ザ・ビートルズ 69/7/10

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ということで、急遽手持ちの日本盤アップルシングルに当たってみたところ、「サワー・ミルク・シー」「イエロー・サブマリン」「メイビー・トゥモロウ」「グッドバイ」は「両面穴あき」中袋。「グッドバイ」は1stカバーはもちろん、2ndカバーでも一枚「両面穴あき」がありました。
手持ちの「ひとりぼっちの道」は「片面穴あき」、「想い出のキャロライナ」は見本盤なのでRUSH袋なのですが、以前所有していたレギュラー盤が「両面穴あき」だったような記憶がうっすらあります。

もちろん、以前の所有者や中古盤業者が入れ替えてしまったりが一番起こりやすいのが中袋ですから断言は出来ないのですが、どうやら69年7月頃までのリリース初盤は「両面穴あき」だったのではないか、くらいは推測出来そうです。
最初に用意した何万枚か(50万枚くらい?)の「両面穴あき」を約半年強で使い切り、その後はレギュラーなライン工程の「片面穴あき」で統一された、と。

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となると知りたいのは、それ以降どこまで?ということ。
今のところ一番末期と思われる「ジョンとヨーコのバラード」には、二つ折りジャケの裏表紙、いわゆる表4に「アップル・ヒット・レコード選」と題した一覧が載っています。当該タイトルを含み、ここに載せられたタイトルまで、初盤は「両面穴あき」だったのではないか、とも考えられます。
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ただし、この一覧にはオデオン時代の68年9月14日にリリースされた「ヘイ・ジュード」(OR-2121)が逸早くアップル番号に変更(AR-2121)されて載っているのですが、わたくしがもっとも参考にさせていただいているサイト「ザ・ビートルズ完全日本盤レコード・ガイド」様によると「ヘイ・ジュード」のAR盤プレスは69年の10月からのようなので、この一枚は告知先走りかな、とも思います。

で、以降のリリース

AR-2305 ニュー・デイ by ジャッキー・ロマックス 69/8/1
AR-2324 平和を我等に by プラスティック・オノ・バンド 69/7/21
AR-2329 神の掟 by ビリー・プレストン 69/9/1
AR-2354 いとしのアンジー by ジ・アイビーズ 69/10/1

これらのわたくし所有のものはすべて「片面穴あき」でした。ただ、発売日が20日後の「ニュー・デイ」やレコード番号は後ながら「ジョンとヨーコのバラード」と発売時期が一番近いジョンの「平和を我等に」あたりには「両面穴あき」があるかも、みたいな気もしています。

ただし、大事なことなので二回言いますが、中袋は後からの差し替えが容易ですから、ジョンの「平和を我等に」や「ヘイ・ジュード(AR-2121)」出品で「両面穴あき」中袋のレア度を強調するような出品者さんがいても、くれぐれも安易に乗っからないようお気をつけください。

と、暇に任せて忘れないうちに書きました。次回からはリング・オー・レコードに戻ります。

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Ring 'O Records 05 Graham Bonnet 04 [リング・オー・レコード]

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三週間遅れたカール・グロスマン氏のシングル・リリース一週間後、77年11月4日にはグラハム・ボネット氏3枚目のシングル盤をリリース。リング・オーにしては活発な新作連続リリースです。

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Goodnight and Goodmorning c/w Wino Song by GRAHAM BONNET (2017 110)

レコード番号が一つ跳んでいるのにお気づきの方もおられると思いますが、2017 109 は欠番となっています。この番号は本来「Dirk & Stig」というユニット名義の「Ging Gang Goolie」という楽曲のシングルの為に充てがわれていた番号でしたが発売中止となり、翌年8月にEMIからリリースされることになります。更に「Stormer」というグループの「High Class Living」というシングルを11月5日に出すというアナウンスもあったのですが、これも中止となり「Stormer」のデビューも翌年に持ち越されます。

おそらくリング・オーは、10月~11月に怒涛の連続新作シングル・ラッシュで話題を呼ぼうと企んでいたのかも知れませんが、生来の杜撰な計画性ゆえか中途半端な三連発で終わりました。

「Ging Gang Goolie」もリング・オー関連と言えるリリースですので、この先、該当の項にたどり着いた際にあらためて詳しくご紹介します。

アルバム「スーパー・ニヒリズム」から三枚目のカットとなるこの曲は、コレクターにとってレア感あるシングル・エディット。と言ってもフェードアウトが早くなっただけ。アルバム・ヴァージョン5分31秒、シングル・エディット3分15秒で、曲後半の「あ、なんか気持ち良くてノッてきちゃった」的ストリングスシンセ中心なバンドのアドリブパート前でフェードアウトしたエディット・ヴァージョンです。

A面の楽曲は、77年当時だと全米1位ヒット「リッチ・ガール(Rich Girl)」で注目を浴びていたホール&オーツ(Daryl Hall & John Oates)の72年リリースなデビューアルバム「ホール・オーツ(Whole Oats)」収録曲のカバーで、作詞/作曲もホール氏オーツ氏と本家のクレジットには載っていない謎の人物=Howard Norman氏。本家は幾分カントリー寄りなアレンジでしたが、ボネット氏のはストリングス≒シンセを効果的に配してよりフィリーソウル・テイストに料理したアレンジとなっています。
B面はアルバム唯一のボネット氏作な描き下ろし曲で、当時の王道なロックサウンド。豪州では一枚前の「Danny」のB面として一足早くカットされていました。

このカップリングでは英国以外、オランダとニュージーランドのマーキュリーからリリース(6001 110)されています…

のはずだったのですが、このリング・オー・シリーズの再始動にあたり、あらためてネット情報をチェックし直していたら、Discogsでみつけてしまいました。米国マーキュリー盤のこれを。

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画像を載せてくださっていた方が出品までされていたので、速攻ポチりました。6ドルで入手したのはわたくしです。各国盤シングルリリースに詳しい他のデータベースサイトでも「Mercury 73960」は欠番だったり、タイトルとアーティスト名は出ているものの[not issued]だったりしたので、すっかり納得し切っていたところでの現物入手が嬉しい、後期リング・オー音源初の米国リリースです。当時、人気上り坂なホール&オーツ楽曲カバーということで米国マーキュリーも、ひょっとしたら…と思ったのかしらん。

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レーベルのタイム表記が3:06となっていますが、聞いてみると英国盤よりフェードアウト後半が唐突に消える感じで、確かに短かくなっています。

ということでボネット氏リリース最初のご紹介で書いた「この後のリング・オー・アーティストはシングル、LP合わせ一枚も米国ではリリースされませんでした」という記述は、謹んでお詫びと訂正をさせていただきます。

さて、前述のように「Wino Song」は豪州でシングル盤としてリリース済みであったためか、このカップリングでの豪州でのリリースは無かったのですが、その代わりなのでしょう、豪州独自のカップリングがマーキュリーから出ています。

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Rock Island Line c/w Soul Seeker by GRAHAM BONNET (6001 111)
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英国では「Danny」のカップリング曲だった「Rock Island Line」をA面に、他国ではシングルカットされていないアルバム収録曲「Soul Seeker」をB面にしてのリリースでした。まるPが1978となっているので、78年になってからのリリースのようです。

ここでボネット氏の豪州マーキュリーでのリリースを整理しておくと、一枚目「It's All Over Now Baby Blue c/w Heroes on my Picture Wall(6001 108)」、二枚目「Danny c/w Wino Song (6001 109)」、そして三枚目「Rock Island Line c/w Soul Seeker (6001 111)」となります。おや?また番号がひとつ跳んでいる…と思った方、これも前述した、リング・オーと同じカップリングでのオセアニア市場ニュージーランドでのリリースが「Goodnight and Goodmorning c/w Wino Song (6001 110)」となります。

これまでリング・オーでのボネット氏リリースがそこそこ好セールスを記録していたオセアニア市場でしたが、さすがにアルバムカット三枚目ともなると、「Goodnight and Goodmorning」「Rock Island Line」共にチャートアクションは記録出来ずに終わりました。

このリリースに関してはこれ以上書くことが無い(この後、一番ややこしいボネット氏リリースがあり、そちら関連のネタは残しておきたい)ので、最後に79年レインボー加入以降の日本盤シングル画像でお目汚しいただいて、この項を終わらせていただきます。


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Ring 'O Records リングオーと赤べことオセアニア市場 02 [リング・オー・レコード]

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1974年、ロバート・スティグウッド氏はビートルズを題材としたミュージカルの制作に関わります。「ジョン・ポール・ジョージ・リンゴ&バート(John, Paul, George, Ringo...and Bert)」と題されたその舞台劇は、クオリーメン時代にメンバーだったという架空の人物=バートくんの回想録という体裁で、ビートルズの結成から分裂、そして架空の再会、という物語だそう(わたくし未見です)。5月にリヴァプールの劇場から始まった英国での一般公開では、73年のアルバム「リンゴ」で半端に実現したビートルズ再結成を期待する気運とも合致し、リヴァプールで8週間上演された後、ロンドンで一年間のロングラン、英国の演劇評論家達から「Best Musical of 1974」に選ばれています。ちなみに、この作品の脚本を担当した劇作家ウィリー・ラッセル(Willy Russell)氏は、デヴィッド・ヘンチェル氏が音楽を担当した83年公開の映画「リタと大学教授」(元々は舞台劇)の作者でもあります。

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劇中歌の歌唱を担当したのは、スコットランド出身で当時はまだ駆け出しだった女性シンガー=バーバラ・ディクソン(Baebara Dickson)嬢。画像は2016年に英国のGonzo Multimediaから出たリイッシューCD( CTVPCD007)。オリジナルはもちろん英国RSOからのアナログLP盤(米国未発売)。

そんな回顧趣味の作品を、その時期のビートルたちがよく許したな、とも思えるのですが、アップルの混迷期に加えてビートルズの楽曲出版社である「ノーザン・ソングス」が人手に渡ってしまっていた時期でもありコントロール不能だったみたい。更に、アラン・クライン氏がアップルで行なった粛清により、永年ビートルズに寄り添っていたピーター・ブラウン(Peter Brown)氏がスティグウッド氏の会社に移っていた、という経緯も影響していたのかもしれません。

スティグウッド氏はアラン・クライン氏時代のアップルからビートルズ楽曲29曲の演劇での使用権を買っており、74年11月にはすでに「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」の楽曲を用いたミュージカル・ライヴ・ショー(後に映画化されるのとは別物)も企画/制作。こちらは米国ニューヨークのブロードウェイで公開し、ジョンと当時の恋人メイ・パン(May Pang)嬢がプレミアに招かれていたりもしていました。

ニューヨーク在住のジョンは面白がっていたようですが、ポールとジョージは自分達不在のビートルズ商売にお冠状態。74年8月「ジョン・ポール・ジョージ・リンゴ&バート」ロンドン初日の舞台を鑑賞したジョージは、実在の自分を舞台上で他人に演じられることに我慢ならなかったらしく途中で席を立ち、劇中で使われていた「Here Comes the Sun」の使用許可を取り消し(ジョージは68年に自身の出版会社「Harrisongs Ltd」を立ち上げ、以降の自身の楽曲を管理していました。ただし、同時期に発売されたオリジナルキャストによるサントラ盤では残ったまま)ます。また、テレビでダイジェストを観たポールも、ストーリーが事実とかけ離れているとして、75年の映画化申請を却下しました。

ポールとジョージは明らかにスティグウッド氏を嫌っていたようですが、リンゴはどうだったのでしょうか。
リング・オー始動と自身の独立に際してポリドールを選び、北米に関してはアトランティックと契約、ソロアルバムのプロデューサーにビージーズを甦らせたアリフ・マーディン氏を起用、リング・オーにおける豪州アーティストの多さと豪州・オセアニア市場の重視、ディスコサウンド的アプローチなどなど、スティグウッド氏のやりかたを参考にしていたようなふしも少なからず窺えます。

もちろん「NEMS」での一件から、「反スティグウッド」はビートルズの総意ですから、リンゴも72年のロンドン交響楽団版ではアンクル・アーニー役で参加していた「トミー」の映画版には参加せず(または呼ばれず?)、制作がRSOを離れ、73年(日本では76年)公開で好評を博した「マイウェイ・マイラヴ(That'll Be the Day)」と同じデヴィッド・パットナム(David Puttnam)氏制作となった、「トミー」と同じくケン・ラッセル(Ken Russell)監督、ロジャー・ダルトリー氏主演75年公開のロックオペラ映画「リストマニア(Lisztomania)」には出演するなど、RSOとの直接的な関わりは避けていたようにも見受けられます。

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当時、俳優業や映画制作にも大いに色気を出していたリンゴでしたから、レコード制作で順調にヒットを飛ばし、映画制作でもひと山もふた山も当てて潤沢な資金を蓄えているであろうRSOの動向は気にかけていたでしょうし、懇意にしているクラプトンやキース・ムーン氏もRSOの下で順調にキャリアを積んでいたので、身近な成功者の例としてビジネスモデルにしていた可能性はあると思います。

あるいは、リンゴ個人は気が進まないながら、73年にアラン・クライン氏との契約完了と告訴合戦以降、リンゴの財務アドバイザー=マネージャーに就任したリンゴより7歳年上(1933年生まれ)のヒラリー・ジェラード(Hilary Lester Gerrard)氏のサジェストがあったのかもしれません。ヒラリー氏はリンゴのマネージャーに就任以降「失われた週末」時期を含めてずーっとリンゴを支え続け、91年のアップル再始動時にもアップル各関連会社の取締役員に名を連らねる(2015年辞任・おそらく年齢的な理由)ほどリンゴと良好な関係を保っています。本業がファイナンシャル・コンサルタントですから、近年マスコミを騒がせたリンゴとTax Havenの問題にも一役噛んでいそう。

さて、スティグウッド氏ですが、76年に大ヒットしたホラー映画「キャリー(Carrie)」に敵役として出演し、その年の7月には、米国の弱小レーベル「Midland International」からビルボード第10位に着くまでにヒットした「Let Her In」というミィディアムテンポのバラード曲を歌っていたジョン・トラボルタ(John Travolta)氏という男前アクターに目をつけ契約、程無く黄金時代を迎えることになります。

77年には、すっかりディスコ色に染まったビージーズの音楽に乗せてトラボルタ氏を一躍スターダムに伸し上げた映画「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever)」、翌78年には、トラボルタ氏の相手役にオリビア・ニュートン=ジョン嬢を配し、ビートルズ襲来以前の米国ハイスクールの青春を描いたミュージカル映画「グリース(Grease)」と、両作品とも映画もサントラ・レコードも大ヒットという黄金期を迎えます。

そんなスティグウッド氏が78年、もう一つビートルズがらみの映画を制作します。「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」。日本公開時は「サージャント・ペッパー」という、何と言うか本家から微妙に距離を置いたような煮え切らない邦題で79年6月に封切られました。

主演はビージーズと、76年リリースのアルバム「Frampton Comes Alive!」で一躍スターダムに伸し上がったピーター・フランプトン氏。スティグウッド氏と並んでこの映画の製作総指揮を務めたディー・アンソニー(Dee Anthony)氏も米国内で重鎮なタレント・エージェントで当時フランプトン氏のマネージャーでもあり、映画の宣伝でビージーズとフランプトン氏のどちらを上に置くか、というしょーもない契約で告訴沙汰となり、結果フランプトン氏が上、という不毛な争いもありました。

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前作「ジョン・ポール・ジョージ~~」で実在ビートルズをストーリーに絡ませるとややこしくなる、ということを学んだらしいスティグウッド氏は、映画脚本執筆未経験だった音楽ライター、ヘンリー・エドワーズ(Henry Edwards)なる人物に当該アルバムの歌詞からイメージを膨らませたストーリーを無理やり書かせます。出来上がってきたお話は、乱暴に言えばビートルズのアニメーション映画「イエロー・サブマリン」の大筋を現代風にして更に下世話にしたような、ひたすら脳天気なロック・ミュージカルという仕上がり。

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ただし、音楽監督にオリジナル版プロデューサーであるジョージ・マーティン卿御大の降臨を成功させます。マーティン卿も最初は断る気満々だったのですが、奥方のジュディ夫人が「引き受けなければ他の人がやるでしょ?それでダメにされても黙って見ている事しか出来ないのよ?」というお言葉と、スティグウッド氏の「好きにやっていい」という約束を信じて引き受けます。
結果、映画は商業的に小ヒット、サントラはミリオンは行ったものの中ヒット、という顛末でした。

マーティン卿のご参加で幾分敷居が下がったのか、出演ミュージシャンにはビートル界隈のお名前もちらほら見受けられます。本編でも重要な役で登場するビリー・プレストン氏、「失われた週末」仲間のアリス・クーパー氏。本編フィナーレでは著名ミュージシャン=スペシャルゲストを集めて表題曲を笑顔で仲良く大合唱するという共感性羞恥満開なシークエンスがあるのですが、一緒にインドに行ってギターテクを教えてくれたドノバン氏、アップル所属だったジャッキー・ロマックス氏、プラスティック・オノ・バンドだった(この頃はもうイエスの正式メンバー)アラン・ホワイト氏、ジョージと仲良しなゲイリー・ライト氏の名前が見受けられます。

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上画像は、そのアルバムからカットされ全米15位まで上がったロビン・ギブ氏名義の「Oh!Darling」日本盤です。邦題が「オー・ダーリング」となっていることにご注目。「オーダーリング」とか言われると、恋人に超高価な婚約指輪でも贈ろうとしている男のラブソング?とか思っちゃいます。英語習いたての中一男子みたいなローマ字寄り読みは、当初「悩殺爆弾」というイケてる邦題を付けたのに、すぐに「チェリー・ボンブ」という、えっ?ボンブ?そっかそれってボンブだったんだ…とゲシュタルト崩壊を呼ぶ、ほぼ同時期リリースでパンクロックにも分類されていた肌露出多めのティーンズ・ガールズ・バンド=ランナウェイズ(The Runaways)のデビュー曲「Cherry Bomb」を思い出させてくれます。

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本家がそう名乗るなら日本語版カバーも、それに倣わざるをえません。
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ただここで、あ、なるほどな、と思わされた史実をひとつ。78年当時、日本音楽界では一時代築かれていた沢田研二(ジュリー)氏が5月に「ダーリング」という新曲をリリース。作詞は大御所、阿久悠氏、オリコン週間1位、年間22位のゴールドディスクという大ヒットです。

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で、ジュリーの所属レコード会社は日本ポリドール、ビージーズも同じ、ロビン・ギブ氏のシングルリリースは7月でした。となると、ロビン氏より数倍売れる(た)であろうジュリーの表記に忖度せざるをえない=ジュリーの曲が「Darling=ダーリング」なら、この曲の表記も「Oh Daring=オー・ダーリング」でしかるべき、という思考が働いたのではないか、と邪推しました。

閑話休題。そういった感じでRSOレーベルは78年、週間ビルボードチャート1位を取った19曲のうち8曲のリリース元であり、21週間連続トップの座という快挙を成し遂げますが、やり手業界関係者の王道でもあるピンハネ疑惑により1980年にビージーズから、スティグウッド氏とRSOレーベルに2億ドルの訴訟を起こされ結果不明のまま和解で終わります。ここでレーベル・ビジネスを諦めたらしいスティグウッド氏は83年までにRSOレーベルをポリグラムに売り払い、後は映画とミュージカル舞台で時折話題を提供しつつ、2016年1月4日ロンドンで、81歳で鬼籍に入られました。Rest In Peace.

この項の最後として、RSOレーベルお馴染みの赤べこマークですが、御本人の弁として「レーベル発足でロゴを考えていた頃、ザ・フーと一緒に日本にいた時、日本人の友達が健康と幸運の象徴である張り子の牛をくれてピンときた」とおっしゃっていますが、皆様御存知の通りザ・フーの初来日は2004年です。RSOの始動は74年ですから、順当に考えて72年から74年までの三年間に三度来日していたビージーズの日本公演時の出来事だったと思われます。


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Ring 'O Records 06 Suzanne 01 [リング・オー・レコード]

1977年10月21日には、スザンヌ(Suzanne)と名乗る女性歌手のこの曲がリリースされます。カールさんの「Face of a Permanent Stranger」リリースが予定より三週間遅れてしまったため、こちらの方が一週間早いリリースなのにレコード番号は後という次第です。

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Born on Halloween c/w Like No One Else by SUZANNE (2017 108)

A面の作詞/作曲/コーラス/プロデュースは、元アージェント(Argent=元ゾンビーズ(The Zombies)のロッド・アージェント(Rod Argent)氏が中心となって組まれたバンド。72年ビルボード最高位5位の「ホールド・ユア・ヘッド・アップ(Hold Your Head Up)」が有名)で、この頃はバンドを抜けソロ活動をしていたラス・バラード(Russell Glyn Ballard)氏。グラハム・ボネット氏がレインボーで78年にヒットさせた「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」の作者でもあります。

リング・オーつながりのエピソードとしては、バラード氏は74年、自身の名前を冠したファースト・ソロ・アルバム「Russ Ballard」をリリースしており、録音場所がロンドンのCBSスタジオ。その頃そのスタジオに勤めていたCoronelのダグさんが4曲目の「You Can Do Voodoo」にバック・コーラス隊の一員= Peter, Doug and Damion of CBSとしてクレジットされているようです。

ライナーに書かれているリズム隊はアージェントのメンバーですが、オルガンのC Hodges氏が気になります。ひょっとするとアップルから72、73年にシングル2枚をリリースしたChris Hodge氏だったりして。

この楽曲も以前ようつべで聴けた記憶があるのですが、今はみつからず。出たての頃のオリビア・ニュートン=ジョン嬢がよく歌っていたようなカントリー・タッチの軽快な曲で、いかにもリンゴが好きそうな曲調。ちなみにスザンヌ嬢は1951年3月20日生まれで、ハロウィン生まれではありません。

B面の「Like No One Else」の作者はCarson Whitsett氏という米国人。スタックス系のセッションマン(オルガン)及びソングライターとして活動していた人だそう。こちらもいかにもなシンコペの効いた軽快ポップスです。
どちらの音源もまだCD化やデジタル配信はされていません。

このスザンヌ嬢というアーティストもネット黎明期までは謎のアーティストでした。ライナーに色々有益な情報が書かれてはいるのですが、ネットの無い時代ではニュージーランドの女性歌手なんて調べようが無いし、ネット黎明期でも「Suzanne」と検索するとヒットするのはスザンヌ・ヴェガ(ちょうどその頃人気者)嬢ばかりという状態。2000年代になってご本人のホームページを見つけ、活動のあらましが明らかになりました。

キーワードとなったのは「Suzanne Lynch」というフルネーム。一枚前のカールさんのシングルでベースとプロデュースを担当していた、同じニュージーランド生まれのBruce Lynch氏の奥様だったのでした。その他にも Suzanne Donaldson(旧姓)、Sue Donaldson、Suzy Donaldson、Sue、Sue Lynch、Suzi Lynchなどなど、様々に名前を使い分けていたみたい。

ニュージーランドで幼い頃からシンガーとしてのキャリアを積まれたスザンヌ嬢は、地元のミュージックシーンで活躍中のブルース氏と恋に落ちてご結婚され、70年代前半には英国に活動の場を広げて、やがて拠点を英国に移し、主にバッキング・ボーカルのセッション・シンガーとして活躍します。

ライナーで目を惹くのは、Bonesというユニットでジェット・レコードからリンジー・ディ・ポール(Lynsey De Paul)嬢のプロデュースによりシングルを出したという記述。リンジー・ディ・ポール嬢というとこの頃、リンゴとのゴシップが囁かれていたコケティッシュな女性シンガーソングライター、わたくしもファンでした。

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75年発売の、その楽曲がこちら「My One And Only c/w Baby Don't Make Me Cry by BONES(2001 576)」。スザンヌ嬢はジャケット真ん中の女性。あとのお二人のお名前は、ニュージランド出身のJoy Yates嬢と米国人のJackie Sullivan嬢だそうです。
画像はイタリア盤で伊ポリドールからの発売。A面レーベルのシール「VENDITA VIETATA」はイタリア語で「非売品」を意味する言葉なので、プロモ用に配られたものでしょう。

リンゴとリンジー嬢が初めて公の場でラブラブ振りを見せつけたのは75年暮れの映画プレミア出席でした。このシングルはレコード番号から75年の早い時期に発売されたっぽく、このレコードでのリンゴとの接点は無さそうですが、リンジー嬢経由でこの頃にスザンヌ嬢を知ったのかもしれません。

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上の画像は、76年リリース予定だったのにジェット・レコードとモメてお蔵入となったリンジー嬢のオリジナル・アルバムを91年、日本のCenturyRecords主導でCD化したもの。

「My One And Only」のご本人歌唱バージョンが入っている他、リンゴと関係のある楽曲が2曲あります。まずタイトル曲の「Before You Go Tonight」は元々リンゴのアルバム用にリンジー嬢が書いた曲だったそうなのですが、リンゴは英国の重税逃れのため年間90日しか英国に滞在できなかったので、レコーディングまでいかなかったとか。また「If I Don't Get You the Next One Will」は、リンゴにディナー・デートをすっぽかされたことがきっかけで作った曲だそう。76年当時は、この曲のシングル盤のみがジェット・レコードからリリースされました(日本では未発売)。

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この時期リンゴは、リンジー嬢がプロデュースを手掛けた英国の大ベテラン(1917年生)女性シンガー、ヴェラ・リン(Vera Lynn)女史76年リリースのシングル「Don't You Remember When」(作詞/作曲はリンジー嬢とBarry Blue氏の共作)のレコーディングでタンバリンを叩いたり、未発表に終わりますが「A&E」という、リンゴがギターでAとEしか弾けないことをネタにした楽曲を共作したり、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」が英国チャート1位となったパーティに仲良く二人で現われるなど、束の間のロマンスを愉しみますが、前述の英国滞在日数期限切れにより、あっさりフェードアウト。ロスで待つナンシー・アンドリュース嬢の元へしれっと戻りました。

話をスザンヌ嬢に戻します。彼女のキャリアでもうひとつ注目したいのがキャット・スティーブンス氏とのお仕事です。74年3月リリースのアルバム「仏陀とチョコレート・ボックス(Buddha And The Chocolate Box)」からのおつきあいで、ブルース氏がベース、スザンヌ嬢はコーラス隊の一員として夫婦揃って参加しています。

そのアルバムからのファースト・シングルが日本でもヒットした「オー・ベリー・ヤング(Oh Very Young)」。1分20秒過ぎの「And the goodbye makes the journey harder still」でハモる凛とした女声はスザンヌ嬢によるものです。

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更にこの年のキャット氏のツアーにも夫婦揃って同行し、74年6月21/22日の来日公演が当時は日本のみでライヴ盤LPリリースされています。内ジャケ(レコード袋)裏面のクレジットはSUE LYNCH名義。

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スザンヌ嬢を調べていてもうひとつ、興味深い事柄がみつかりました。

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上画像は、77年5月1日からの北米以外での配給権をポリドールと再契約した、というリング・オーのプレスリリース。写っているのはリンゴと、当時の英ポリドール広報責任者だったMike Hales氏、ポリドールでA&Rマネージャーを勤めリング・オーの統括責任者となったTerry Condon氏、そして76年にキース・ムーン氏から贈られたというでっかいパンダのぬいぐるみ。このパンダはリング・オーの「取締役会々長」とされ、すべての会議に出席しており、出席者のうちMike Hales氏はポリドール側ですから、残りの3名がリング・オー・レコードの重役だったようです。

ここに出てきたTerry Condon氏なる人物をググると面白いエピソードがありました。1966年、ビートルズが「リヴォルバー」セッション中の5月に「イエロー・サブマリン」に着手。6月1日にお馴染みの効果音と合唱のオーバーダビングをするのですが、その参加者の中にTerry Condonという名前が出てきます。

複数の記述を総合すると、当時のEMIスタジオ(現在のアビイ・ロード・スタジオ)従業員だったJohn Skinner氏とTerry Condon氏がチェーンをバスタブの中で振り回して水流の音を作った、というもの。

上記プレスリリース中にTerry Condon氏28歳とありますので、77年マイナス66年で11年前は17歳。デヴィッド・ヘンチェル氏も17歳位からスタジオで働いていたようですから、同一人物だとすることもありえない話ではありません。

更に掘っていくと、Terry Condon氏は72年にニュージーランドのPolyGramのディレクターとしてすでにスザンヌ嬢のシングル盤制作に関わっており、更に現在もニュージーランドPolyGramの重役であるとの情報もあります。となるとTerry Condon氏もニュージーランド出身の方のようですし、スザンヌ嬢のリング・オー・リリースもPolyGram≒ポリドールの意向が働いていたのかもしれません。

と、思っていたよりずいぶん長くなってしまったので、スザンヌ嬢のニュージーランド時代や現在のことは、スザンヌ嬢のもう一枚あるリリースの項につづきます。

リンジー・ディ・ポール嬢は、2014年10月1日、脳出血のため66歳の若さでお亡くなりになられました。Rest In Peace.
また、ヴェラ・リン女史も、2020年6月18日、103歳で永眠されています。Rest In Peace.

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Ring 'O Records 03 Carl Groszmann 02 [リング・オー・レコード]

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Face of a Permanent Stranger c/w Your Own Affair by Carl Groszmann (2017 107)

1977年10月28日には、カール・グロスマン氏にとってリング・オー二枚目のシングルが英国でリリースされます。

グラハム・ボネット氏のリリースから始まったジャケ裏ライナーには、カールさんの出自がかなり詳しく説明されていますが「I've Had It(2017 103)」でも触れたように今作がリング・オーでのデビュー作とされちゃっています。また、ライナーには10月7日リリースと書かれていますが、実際には三週間遅れ、と相変わらずのグダグダ感。ノルウェーとスウェーデンでも同カップリングでリング・オー・レーベル名義でリリースされたという未確認情報もあります。

今作もオフィシャルでのデジタル化や配信は無いですが、ようつべでタイトルとアーティスト名で検索すればA面曲は、楽曲がフルで聴ける静止画動画が二種類ほどありました。

レコーディング参加メンバーでビートルファン的に目を惹くのは、ギターに翌年ウイングスに参加することとなるローレンス・ジューバー(Laurence Juber)氏。ジューバー氏はこの頃、英国ミュージックシーンで売れっ子セッションマン、この年の007映画で後にリンゴの奥方ともなるバーバラ・バック(Barbara Bach)嬢がボンドガールとして出演した「私を愛したスパイ(The Spy Who Loved Me)」のサントラにもギターで参加しています。あと、ドラムにもジョンやジョージのアルバムでお馴染みのアンディ・ニューマーク氏のお名前が。

そしてベースとプロデュースを兼任されたブルース・リンチ(Bruce Lynch)氏が本作のキーパーソン。この人のお名前とここでのご紹介を覚えておいていただけると、この先のリング・オー・リリースのご紹介がよりスムースとなります。

1948年にニュージーランドで生まれたブルース氏は元々ジャズ・ベーシストだったらしく、故郷の音楽シーンでセッションマンやプロデューサーとして活躍した後の74年に英国に渡り、キャット・スティーヴンス(Cat Stevens=77年にイスラム教へ改宗し以降ユスフ・イスラム(Yusuf Islam)として活動)氏のバッキングメンバーとして活躍。ジューバー氏と一緒に「私を愛したスパイ」のサントラにも参加している他、78年には英国が生んだ異彩の歌姫=ケイト・ブッシュ(Kate Bush)嬢のデビューアルバム「天使と小悪魔(The Kick Inside)」でA面二曲目、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモア氏が制作指揮を取った「サキソホーン・ソング(The Saxophone Song)」でべースを弾いています。また79年には前年にラトルズのテレビショーで名が売れたニール・イネス(Neil Innes)氏のソロ名義三作目「ブック・オブ・レコーズ(Book Of Records)」でもA1からB2までの七曲のベースを弾いています。

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上画像は、2004年日本のMusic Scene Incorporated(MSI)から紙ジャケCD化されたときのもの(MSIG0102)。

さて、カールさんが豪州のミュージックシーンにデビューしたのは1965年、スティーブ・アンド・ザ・ボード(Steve And The Board)という5人組のバンドにCarl Keatsという芸名でギター&ヴォーカルとしての参加でした。このバンドは65年から67年の間に豪州のローカルレーベル「Spin」から6枚のシングルと1枚のアルバムを残しています。

このバンドのリーダーであったスティーブという人は、フルネーム=スティーブ・キプナー(Steve Kipner)、1950年生まれの米国生まれ豪州育ち。65年に豪州で自作曲を歌うリードシンガーとしてバンドを組み、父親がソングライター兼プロデューサーで、既にSpinレコードをも立ち上げていたせいもあり、割とあっさり豪州ミュージックシーンにデビューし、人気も得ます。Spinには極初期のビージーズも在籍していたのでスティーブ・アンド・ザ・ボードのメンバーはギブ兄弟とも仲良くなりますが、紆余曲折あった末ザ・ボードは解散、67年に英国へと戻ったビージーズの後を追うように、キプナー氏も68年に英国へと渡ります。なお、ザ・ボードのドラマーだったColin Petersen氏はその後、英国に拠点を移したビージーズのバッキングバンドに抜擢されました。

スティーブ・キプナー氏は、豪州で知り合っていたシンガーソングライターのSteve Groves氏と英国で、Tin Tin(当時日本のレコード会社から一枚もリリースされていないため、カタカナ表記は不明ですが、おそらくチンチン、ティンティンではなくタンタン=当時人気だったベルギー生まれの作家Hergé氏による「タンタンの冒険(Les Aventures de Tintin )」というコミックス=絵物語=バンド・デシネ(Bandesdessinées)と呼ばれる読み物から採られたとされるので)というユニットを組み、例によって豪州閥は疎にして漏らさずなロバート・スティグウッド氏の目に止まりレコードデビュー。

一作目はモーリス・ギブ氏、二作目はリンゴと73年に楽曲共作することになるBilly Lawrie(英国の人気女性歌手で73年までモーリス・ギブ氏の奥方でもあったルル(Lulu)嬢の3つ年下の弟さんでシンガー)氏のプロデュースのもと、70年、71年と二枚のアルバムをポリドール・ATCOからリリース。二枚目のアルバム「Astral Taxi」にはカールさんも参加しています。

で、このTin Tinというアーティスト名に「おやっ?」と反応された人とは美味しいお酒が飲めそう。

70年代初期にビートルズの未発表曲として海賊盤で紹介され、後の85年、オノ・ヨーコ未亡人が故人のテープ整理をしていた際にすっかりジョンの作品と思い込み米国で著作権登録の申請をしてしまったという「Have You Heard the Word」という楽曲の作者であり録音の首謀者がTin Tin。

実際は、モーリス・ギブ氏プロデュースのTin Tinの新曲としてキプナー氏たちが用意していた楽曲だそうで、69年8月、そのリハーサルセッションにモーリス氏と当時の妻のルル嬢、弟のBilly Lawrie氏がジョニー・ウォーカーのボトル(知っているとは思うけれど老舗スコッチ・ウイスキーの銘柄。ジャック・ダニエルだったという説もあり)を持って訪れたのが発端でした。

あっさり呑んだくれたメンバー達は悪ノリし、すでに録音されていたTin Tinによるバッキングトラックに、両スティーブ氏に加えてモーリス・ギブ氏とBilly Lawrie氏がビートルライクにリードボーカルはジョン風、コーラスもファブフォー風、ベースもポール寄りに弾き倒してオーバーダブ、プレイバックを聴いて参加者全員いいじゃんいいじゃんと大笑い、ああ面白かったという顛末。リリースする気はまったくなかったようなのですが70年、なぜだか英国の当時マイナーなBeaconレーベルからThe Futというバンド名で「Have You Heard The Word c/w Futting (BEA 160)」としてシングル盤リリースされてしまいます。B面曲はレゲエ≒スカ・チックなインスト曲で、A面のセッションとはまったく無関係=作者(レーベルの名義はThe Fut)及び演奏者不明、とされています。

リリース当時は当然、まったく注目されなかったのですが、そのビートリーなサウンドに目をつけたブートレガーがビートルズの未発表曲というふれこみで3年後、ビートルズの映画からの音源やラジオのエアチェック音源等と組み合わせ、未発表音源集の目玉として海賊盤リリースしたことにより、現在に至ります。

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上画像は90年代にビートルライクな歴代のフェイク音源を中心に丹念に集めた(おそらく日本製の)ブートCD。

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そしてこれは、わたくしが80年代に確か名古屋の中古屋さんで500円くらいで入手したシングル盤。「うわ、こんなレア物がこんな安価で」と喜んでいたのですが後年、米国製のパイレート盤と判明しました。確かにBeaconレーベルじゃないしB面のタイトル違ってるし(両面とも音源はBeaconオリジナルと同じでした)。

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「Have You Heard the Word」にカールさんは全く関与していないのですが、ビーヲタ的にこの顛末はご紹介しておきたいと思い、長々と書いてしまいました。

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そしてこちら、2004年に英国のリイッシュー専門レーベルCastle Musicから出たビージーズのカバー楽曲類を集めたコンピレーションCD「Maybe Someone Is Digging Underground - The Songs Of The Bee Gees(CMQCD 963)」で、めでたく正規にデジタル音源化されました。

まとめの意味で、スティーブ・キプナー氏の一番ポピュラーな大仕事、81~82年、オリヴィア・ニュートン=ジョン嬢の大ヒット曲「フィジカル (Physical)」の作者としてお名前を連らねていることを書き添えて、この項を終わらせていただきたいと思います。

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なお、ギブ三兄弟では一番年下だったモーリス氏ですが、2003年1月12日、病気の手術中に53歳の若さで亡くなられています。Rest in Peace.

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Ring 'O Records リングオーと赤べことオセアニア市場 01 [リング・オー・レコード]

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ロバート・スティグウッド(Robert Colin Stigwood)氏は1934年オーストラリア生まれ。21歳の頃に英国へ渡り、50年代末に演劇関連のマネージメントビジネスを始めます。俳優に歌を唄わせてレコードを発売する仕事でヒットを放ち、レコード会社に雇われていない独立したレコード・プロデューサー(原盤制作・管理者)となります。その後も浮き沈みはあるものの英国と豪州を股にかけて地道に演劇や音楽関係の仕事をつづけ、66年、英国で最も早い独立系(インディーズ)レコードレーベル(ここで言うインディーズとは、既存のレコード会社のお金に頼らず自ら資金を出してレコード原盤を作り原盤権を得た上で、その音源を既存レコード会社に貸与または供与するシステム)「リアクション・レコーズ(Reaction Records)」を立ち上げます。

レーベル最初のリリースはザ・フーの「恋のピンチヒッター(Substitute)」のシングルで66年3月のリリース。配給元は英国がポリドール、米国ではアトランティック系列のアトコ(ATCO)でした。前例無き試みでもあったため法的契約上のいざこざ等をもなんとか克服し、同じ頃、スティグウッド氏が契約していた2つのバンドメンバーが合流して結成されたクリーム(Cream)とも契約。彼らのファーストアルバム「フレッシュクリーム(Fresh Cream)」もリアクションからリリースされました。

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上画像は当時英国ではリアクションからリリースされたザ・フーの日本盤シングル(ただし2017年にリイッシューされたCDシングルの復刻ジャケット=UICY-78497)。

翌67年、ツアーをやめてしまい自分の仕事上の存在感が希薄化していることに思い悩むビートルズのマネージャー=ブライアン・エプスタイン氏が、最近英国音楽ビジネス界隈でめきめき頭角を現わしていたスティグウッド氏とコンタクトを取り、エプスタイン氏の会社「NEMS」に引き入れます(当時の英国ではまだ非合法だったゲイ・コミュニティで顔見知りだった、という話もあります)。

同じ頃、豪州で活躍中だったビージーズの元締め=ギブ兄弟の父親、から「NEMS」にデモテープが送られ、それを聴いて興味を持ったエプスタイン氏は、豪州でビージーズとは旧知だったスティグウッド氏を担当に付けます。アーティスト(とくにビートルズ)本位でビジネス的には穏便路線だったエプスタイン氏と、儲かりそうと思えば法的問題二の次であの手この手と精力的に動き回るスティグウッド氏との相性は良くなかったようですが、人生お疲れ気味のエプスタイン氏はスティグウッド氏のビジネスセンスを認めざるを得なかったのか、当時抱えていたアーティスト・マネージメントのうちビートルズと、同じくらい長いおつきあいのシラ・ブラック(Cilla Black)嬢以外すべてをスティグウッド氏に任せることにしました。

そんなさなかの67年8月27日、エプスタイン氏が急死してしまいます。関係者誰もがあたふたする中、期日内に一定の株を買い取れれば「NEMS」を手中に出来るスティグウッド氏でしたが、そこで猛反発したのがビートルズの各メンバーでした。エプスタイン氏存命時から節税対策等の意味もあり、自分たちで采配できる会社=「アップルコア(Apple Corps Limited)」の構想を練っていたビートルズは、これ以上誰かの下で働かされるのは御免だ、とばかりに反旗を翻します。2000年代のインタビューでポールは、エプスタイン氏存命中にスティグウッド氏が「NEMS」の乗っ取りを謀っていることに対してこう語っています。「もしもそうするならひとつ約束する。これから出るすべてのレコードに「God Save the Queen(英国国歌)」を調子っぱずれで収録してやる。もし奴がそうするなら、奴が手中にするのはそういうものだ」と。その辺りの状況判断も長けているスティグウッド氏は、ビートルズと同じくらい有望なアーティスト=ビージーズやクリームを引き連れて「NEMS」を離れ、67年中に自身の名を冠した制作プロダクション「Robert Stigwood Organisation」を立ち上げます。

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それに伴いリアクション・レコーズもフェードアウトするのですが、リアクションでの経験がザ・フーのマネージャー氏に66年末、ビートルズのアップルよりも一年以上も早く、ザ・フー自身のレーベル「トラック・レコーズ(Track Records)」を立ち上げさせる糧ともなりました。トラック・レコーズは初期ジミヘンの英国での配給元になったり、68年、ジャケットの問題でEMIからリリース拒否されたジョンとヨーコのアップルでのアルバム「トゥ・ヴァージンズ(TwoVirgins)」の英国での配給を担当したりもしています。

ビージーズやクリーム解散後の各メンバーのマネージメントは継続しつつ、自身の原点を振り返ったのか演劇方面に再び手を拡げたスティグウッド氏は、68年「ヘア(Hair)」、70年「オー!・カルカッタ!(Oh! Calcutta!)」と舞台ミュージカルのヒット作制作に関わり、71年に自身もプロデューサーとして名を連らねた「ジーザス・クライスト・スーパースター(Jesus Christ Superstar)」というロック・ミュージカル作品が、舞台、映画、サントラ・レコードとマルチに大ヒットとなります。その後、75年のザ・フー69年発表のアルバムを原作としたロック・オペラ映画「トミー(Tommy)」も大ヒットという具合に、今で言うマルチメディア的戦略がスティグウッド氏の王道パターンとなります。

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そんなスティグウッド氏が満を持して73年に自身のレコード・レーベルを再び立ち上げたのが、赤べこマークでのお馴染みの「RSOレコード(RSO Records)」。主となる所属アーティストは、長年おつきあいで原盤権を握っているビージーズと元クリームの面々、そこに「ジーザス・クライスト・スーパースター」で人気者となったイヴォンヌ・エリマン(Yvonne Marianne Elliman)嬢なども加わり、英米のヒットチャートを賑わせ始めます。

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68年にビートルズがアップル・レーベルを始めて以降、音楽業界ではアーティストやプロデューサーのような業界関係者が独自資金による原盤制作提供会社、所謂インディーズ・レーベルを立ち上げることが目立って増えていきました。

有名どころを挙げていくと、ビートルズの楽曲出版業務を最初期から担当(そして69年にメンバーの意に反して版権を第三者に売り払ってしまった)していたディック・ジェームス(Dick James)氏がデビュー前のエルトン・ジョン氏との出会いを発端にして「DJM Records」を立ち上げたり、ハーマンズ・ハーミッツ、ドノヴァン氏やジェフ・ベック氏のプロデューサーとして名を上げたミッキー・モスト(Mickie Most)氏が自身のプロデュース作をメインとするレーベル「Rak Records」を作ったり、ムーディ・ブルース(The Moody Blues)の「スレッショルド(Threshold Records)」、元ボンゾ・ドッグ・バンドなどのマネージャーだったというトニー・ストラットン-スミス(Tony Stratton-Smith)氏が立ち上げた「カリスマ(Charisma Records)」…

70年代になるとベロマークでお馴染みの「Rolling Stones Records」、ジェファーソン・エアプレインの「Grunt Records」、ディープ・パープルは「Purple Records」、エルトン・ジョンが「Rocket Records」、EL&Pの「Manticore Records」、スモール・フェイセスやELOのマネージャーであったドン・アーデン(Don Arden)氏が設立した「Jet Records」、レッド・ツェッペリンの「Swan Song Records」などなど…

そんな独立系レコード会社乱立期にあって「RSOレコード」は、間違いなく大成功を収めている側にいました。リング・オー発足から終焉を迎える75-78年時期は、ビージーズのディスコ路線への変更がブームを作り、クラプトンの再起作「461・オーシャン・ブールバード」から続く諸作も順調にヒットを飛ばし続け、リング・オー再起動なこの頃、すなわち77-78年は、あの映画「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever)」で一大ブームを巻き起こしにかかる時期と重なっています。

DWQ6007a.jpgDWQ6007b.jpgDWQ6007c.jpg76年9月4日付ビルボード第1位曲


ずいぶん長くなってしまったので、つづきます。


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Ring 'O Records 05 Graham Bonnet 03 [リング・オー・レコード]

2枚のシングル盤リリース後の1977年9月5日、いよいよボネット氏のアルバムが英国でリリースされました。リング・オー・レコーズにとって2枚めのLPリリースです。

と、その前に、デビューシングル「It's All Over Now Baby Blue c/w Heroes on my Picture Wall (2017 105)」のレーベル違いバージョンが入手出来たのでご紹介。

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レーベル面が赤いこのシングル盤は、オランダ・プレスで英国輸出用、77年6月から出回ったセカンド・プレスらしくレコード番号は同じです。リング・オーでこのレーベルデザインが採用されたシングル盤は、このタイトルしかありません。

話を戻します。

GRAHAM BONNET  by  Graham Bonnet
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英国の他、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、西ドイツ、オランダでもマーキュリーからリリース(レコード番号は各国共通9199 133)され、豪州でアルバムチャート最高位7位、ニュージーランドで11位を記録しています。

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日本でも日本フォノグラム社(当時)傘下のマーキュリー・レコードから「スーパー・ニヒリズム」という邦題が付けられ、だいぶ遅れての78年1月にリリース(RJ-7332)。その後、ボネット氏がレインボー参加「信州りんごw」で話題になった後の82年「スーパー・ニヒリズム/グラハム・ボネットⅠ(ファースト)」とタイトルがバージョンアップして再発売(25PP-70)、上画像は再発売時のもの。

88年01月25日には日本フォノグラムのヴァーティゴ・レーベルからリング・オーとは無関係なレインボー脱退後の81年リリースなサード・ソロ・アルバム「孤独のナイト・ゲームス(LINE-UP)」との2in1で一曲(B-3)オミットされてCDリリース(33PD-364)、ずっと時を経た2009年12月16日には、98年に設立されたクラシックロック系リイッシュー主体のインディーズ・メーカー「エアー・メイル・レコーディングス(Air Mail Recordings)」から紙ジャケでボーナス1曲入り単独CD(AIRAC-1558)もリリースされました。

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日本盤ライナーノートは、小倉エージ氏(RJ-7332)、伊藤政則氏(25PP-70)、有島博志氏(33PD-364)、舩曳将仁氏(AIRAC-1558)が担当されています。82年の再発盤ライナーではリング・オーについては一言も触れられておらず、88年の2in1CD化でも「イギリスのスモール・レーベル」という素っ気無い表現で片付けられています。

日本盤ライナーに載っていない興味深いエピソードとしては…

70年代初頭、ロイ・ウッド氏が居た極初期のエレクトリック・ライト・オーケストラ(Electric Light Orchestra)=ELOに誘われたのですが、彼らの希望が、ベースを弾きながら歌うこと、だったので、ギターを弾きながら、なら演ったことあるけれど、ベース&ボーカルは未経験だったので断った、というお話。でも後年のインタビューでは、その頃の彼女に「バンドに入ったらまたあちこちツアーで巡って知らない女の子にキャーキャー言われちゃうんでしょ?」って拗ねられてやめといた、ともおっしゃっています。

更に72年には「スタック・イン・ザ・ミドル・ウィズ・ユー」(Stuck in the Middle with You)」の大ヒットを飛ばすも主要メンバーであったジェリー・ラファティー(Gerry Rafferty)氏が一時脱退してしまった英国のバンド、スティーラーズ・ホイール(Stealers Wheel)に誘われたり(この時もベース&ボーカルとして)や、後にパンクなメタルサウンドで頭角を顕すモーターヘッド(Motörhead)のベース&ボーカル=故レミー・キルミスター(Lemmy Kilmister)氏が70年代中盤まで在籍していたサイケデリックバンド=ホークウインド(Hawkwind)にも、おそらくレミー氏加入前に誘われていたようです。

また、ライナーでは今一あやふやなボネット氏とリンゴの若き日の遭遇については…

ボネット氏が生まれ育ったイングランドのリンカーンシャー州・スケッグネス(Skegness)は海沿いの町で夏のリゾート地として若者たちで賑わう場所。そこにバトリンズ(Butlins)と呼ばれるホリデーキャンプがあったのですが、これは英国の起業家、ビリー・バトリンなる人物が第二次世界大戦前から屋台商売を皮切りに英国各地の海沿いにホリデーキャンプを作り、70年代には全英10ヶ所での営業を誇る一大チェーンの総称がバトリンズ。で、スケッグネスのバトリンズはそのうちのひとつで最初に作られた場所でした。現在でもバトリンズ・リゾートとしてスケッグネスを含め英国海沿い3ヶ所で営業しているようです。

1960年から62年まで、ビートルズ以前にリンゴが在籍していたロリー・ストームとハリケーンズ(Rory Storm&Hurricanes)がバトリンズに雇われて5月から8月末までのシーズン中に各地のバトリンズで演奏することになります。

ボネット氏の記憶によると61年、スケッグネスのバトリンズにハリケーンズが来たときロリー氏がなぜだか不在で、バトリンズに勤めていた隣人が「良い歌手がいる」と近所で評判だったボネット氏をバンドに推薦して歌ったけれど、まだ13歳ということで駄目だった、というものですが、マーク・ルイソン氏の調査では62年のとある日、スケッグネスのバトリンズでの午後のセッション時に参加自由の「Pop Singing Contest」という催しが開かれ、14歳だったボネット氏がハリケーンズをバックに歌ったが優勝はしなかった、という記述でした。いずれにしても遭遇は確かにあったようですが、これで「知り合い」と言えるかは???…

ちなみに、ビートルズがデビュー前から親しくしていた音楽ジャーナリスト、ビル・ハリー(Bill Harry)氏は、ハリケーンズがスケッグネスで出演中の62年初夏のある日午前10時、ジョンとポールがわざわざキャンプまで来てリンゴを譲って欲しいと交渉、リンゴは受諾し、その年の8月からビートルズの一員となった、という逸話を記しています。

ここまで書いて、ボネット氏が音楽界入りするきっかけともなったロバート・スティグウッド氏とリング・オーの話に移ろうと思っていたのですが、想定外に長くなったので次の機会に。

最後に日本盤CD画像を。

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Ring 'O Records 05 Graham Bonnet 02 [リング・オー・レコード]

77年9月にはアルバム発売も控えていたボネット氏、豪州での好成績が弾みになったのか前作から3ヶ月も経たないうちに第二弾シングルをリリースします。

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Danny c/w Rock Island Line (2017 106 )

英国発売は77年8月12日。また、このシングル盤から小さなレーベル・ロゴを全面にあしらったポケットタイプの厚紙スリーブが新たに用意され、裏面にはアーティスト紹介の簡単なライナーノートが載せられることになります。この形態でのリリースはプロモーション盤とみなされていますが、この後の別アーティストのリリースを含めてレーベル面にはプロモーション盤や見本盤を示す表記はありません。見かける頻度的にリリース直後は普通にこの形態で売られていたのかもしれません。

ライナーにはレコーディング場所や参加メンバーとボネット氏の略歴が書かれていて、前作「It's All Over Now, Baby Blue」が No.1 in the Needletime playlist charts とされています。Needletime のニードルとは、アナログレコードの溝を再生するレコード針のこと。この頃の英国ラジオ界では、レコード会社の利益=レコード盤の売上を守るために、レコード盤を用いての一日のオンエア可能時間が決まっていました。しかしながらアーティストが新曲を出したとき、ラジオやテレビで一般客の耳に触れ気に入ってもらわなければレコードも売れません。そこで、各レコード会社が売りたい自社アーティストをオンエアしてもらおうと限られた時間枠を巡ってしのぎを削っていたらしい。すなわちニードルタイム・プレイリストで一位になるということは、それだけゴリ押しされていたということなのですが、その割に前作は英国の売上チャートでは圏外に終わっています。

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一般的には、薄紙カンパニー・スリーブなこの形態で市場に並びました。

A面は一聴してオールディーズのカヴァーだな、とわかるハチロクのロッカバラード。50年代からエルヴィス・プレスリー御大をはじめとする旬のシンガー達に多数の楽曲を提供してきた Ben Weisman氏とFred Wise氏のソングライター・チームによる楽曲。元々は58年エルヴィス主演第四作目の映画「闇に響く声(King Creole)」(18歳のジョンが当時の女友達セルマ・ピクルズ嬢と観に行き、眼鏡をかけたがらないジョンにナイロンのセクシーな広告をセルマ嬢がどんな広告か説明しつつ、周りの女の子たちがスクリーンのエルヴィスに向けて嬌声を上げるのを見て「いい商売だ」と思ったという映画)の挿入歌として書かれたもので、劇中のエルヴィスの役名がダニー・フィッシャー。なぜだかエルヴィスの録音は当時のサントラ盤に収録されず、有名どころでは59年にクリフ・リチャード(Sir Cliff Richard)卿がシングル盤リリース。そんな経緯から歌詞中「Danny」と歌うところを「Lonely Blue Boy」と変え、そちらをタイトルとしてカヴァーされることもあります。

奇しくもボネット氏の「Danny」リリースの4日後、77年8月16日にエルヴィスは42歳の若さで亡くなってしまい、翌年のレア音源を含む編集盤「エルヴィス・プレスリーの歴史Vol.3 (Elvis: A Legendary Performer Volume 3)」でエルヴィス歌唱の「Danny」が初めてリリースされました。
近年では「Lonely Blue Boy」のタイトルでエルヴィス・コステロ氏やBill Wyman's Rhythm Kingsもカヴァーしています。

カップリングの「Rock Island Line」は若き日のビートルたちも夢中になり英国スキッフル・ブームの起爆剤となったロニー・ドネガン(Lonnie Donegan)MBE 、55年リリースの出世作(楽曲自体は1929年から歌い継れる米国発祥のフォークソング)。ボネット氏歌唱のアレンジもフィドルをフィーチャーしてカントリー&ウエスタンとスキッフルの融合のようなゴキゲンな出来栄え。

そんな「Danny」は、豪州ではカップリングを「Wino Song」(この楽曲も9月発売のアルバムからのカット。アルバム中唯一のボネット氏オリジナル書き下ろし曲)に変えてマーキュリーからリリースし、チャート79位を記録しました。

さて、グラハム・ボネット氏の経歴でわたくしが「おや?」と思ったのは、1968年にマーブルス(The Marbles)というアーティスト名でビージーズのギブ三兄弟書き下ろしの「オンリー・ワン・ウーマン(Only One Woman)」というヒットを飛ばしていること。マーブルスというのは、ボネット氏とほとんど同い年のいとこ=トレヴァー・ゴードン(Trevor Gordon)氏とで組んだデュオ・グループ。結成の経緯は…

ゴードン氏一家が50年代後半にオーストラリアへ移住し、ゴードン氏はハイスクール時代に豪州で芸能活動を開始、テレビのレギュラー番組を得るほどの人気者となり、まだ豪州在住でデビュー直後で更に年齢も近かったビージーズ(バリーはふたつ上、ロビンとモーリスはひとつ年下)と64年に知り合います。

ずっと英国で育ったボネット氏も十代から地元のバンドでギターと歌を始め、67年20歳の頃、豪州から戻ったゴードン氏と合流し、英国に拠点を移していたビージーズ経由でロバート・スティグウッド氏が気に入り契約、バリー・ギブ氏命名マーブルスとして68年デビューとなります。

マーブルスはシングル3枚をリリースし、その6楽曲すべてがギブ兄弟からの提供曲やカヴァー曲でした(英国では最後の一枚のみカップリング違いでニール・セダカ御大でお馴染みのヒット曲「悲しき慕情(Breaking Up is Hard to Do)のカヴァー)。68年8月発売の一枚目「オンリ・ワン・ウーマン」は英国で最高位5位のヒットとなり(レインボーのリッチー氏もこの曲の歌唱でボネット氏に白羽の矢を立てたらしい)ましたが、その後は尻すぼみ。69年内には志向の違いからデュオは分裂状態となり、解散後の70年に、それまで録りためていた曲を加えて唯一のアルバムがリリースされました。

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画像は、そのアルバムの94年リイッシューCDオーストラリア盤「Marble-ized(Polydor – 523 866 2)」。LPオリジナル盤にシングル2枚目B面曲が一曲追加されています。

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マーブルスは日本でも69年に当時の日本グラモフォン社のポリドール・レーベルからシングル盤が3枚ともリリースされています。参考までにレコード番号を載せておくと「オンリー・ワン・ウーマン/キャンドルの陰で(DP-1611)」「君を求める寂しい心/君を愛す(DP-1635)」「誰も見えない/リトル・ボーイ(DP-1660)」。CDジャケットで分かる通りイケメン二人組(ボネット氏はたぶん向かって右側)ですから、当時のミュージック・ライフ誌でもアイドル的にグラビアを飾り、ビージーズとの絡みから豪州アーティストと誤解もされていたようです。

以前ご紹介したCarl Groszmann氏も豪州時代にビージーズとお仕事していましたし、リング・オー・アーティストを追っていくとビージーズの名前が頻出します。そしてビージーズと言えば、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタイン氏と因縁浅からぬ、ロバート・スティグウッド(Robert Colin Stigwood)氏の名前が思い出されます。次回は、そのへんのところを掘り下げてみたいと思います。

なお、マーブルスのTrevor Gordon氏は、2013年1月10日ロンドンで、64歳の若さで亡くなっています。Rest in Peace.

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Ring 'O Records 05 Graham Bonnet 01 [リング・オー・レコード]

1977年3月、改めてポリドールがリング・オー・レコードの全世界配給権契約を更新(おそらく予算は大幅に縮小されて)し、リスタートすることになります。

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その第一弾アーティストがグラハム・ボネット(Graham Bonnet)氏。英国で77年5月27日に「It's All Over Now Baby Blue c/w Heroes on my Picture Wall (2017 105)」というシングル盤をリリース。リング・オーとしてはおよそ一年半振りの新譜リリースとなります。

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グラハム・ボネット氏は、一連のリング・オー・アーティストの中では洋楽ファンに一番知名度がある人でしょう。後の79年に元ディープ・パープルのリッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore)氏がリーダーシップを取るハード・ロック・バンド=レインボー(Rainbow)の二代目ボーカリストとして迎え入れられ、アルバム「ダウン・トゥ・アース(Down to Earth) 」に参加。シングルカットされたラス・バラード (Russell Glyn Ballard)氏作のカヴァー曲「シンス・ユー・ビーン・ゴーン(Since You Been Gone)」が全英6位、全米57位にチャートイン。レインボーからはこのアルバム一作で脱退するも、その後マイケル・シェンカー・グループ(Michael Schenker Group:M.S.G.)、アルカトラス (Alcatrazz)、インペリテリ (Impellitteri)とハード・ロック、ヘヴィ・メタル畑を渡り歩き、現在も活躍中ということで、バイオグラフィも詳しいものが多々みつけられます。wikiとか。

なので、レコーディング・メンバー等の解説などは、この先順を追って画像で載せていくアルバムのジャケットやライナーノートをご参照ください。例によってレコーディング現場でのリンゴの関与はまったくありません。

A面はボブ・ディラン御大65年発表超有名曲のカバー。B面はこのレコードのプロデューサー、ピップ・ウィリアムス氏と彼の曲作りの相棒だったピーター・ハッチンス(Peter Hutchins)氏の共作による書き下ろし楽曲。
この時期のボネット氏の音源は様々な配信サービスで取り扱われていますしCD化もされているので、タイトルとアーティスト名で検索すれば容易に聴けるはずです。

さてこのシングル盤、リスタート一発目で気合が入っていたのか、英国以外でも豪州、フランス、オランダ、ポルトガル、ニュージーランド、旧ユーゴスラヴィア、そして日本でもリリースが確認されています。ただし英国以外はポリドール≒ポリグラム系列のマーキュリー・レコード(Mercury Records)からのリリースで、マーキュリーからのリリースではレーベルやジャケに一切リング・オーの記述はありません。ポリドールさえもリング・オー・レコードというブランドに価値を見いだせなくなったご様子。て言うか、マーキュリーは元々米国のレーベルだったのに、このレコードは米国ではリリースされず(米国でもマーキュリーからリリースされた(6001 108 この番号は日本とユーゴ以外他国のマーキュリー・リリースと同じ)という未確認情報もありますが)、更に言えば、この後のリング・オー・アーティストはシングル、LP合わせ一枚も米国ではリリースされませんでした。リンゴと関係を保っていたアトランティックも我関せず状態。

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上の画像はオランダ盤(6001 108)の表裏。

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こちらは日本フォノグラムのマーキュリーレコード(レーベル)から出た日本盤(SFL-2210)。
表題曲は後に日本盤もリリースされるアルバムの一曲目でもあるのですが、アルバムのライナーではディラン御大準拠の「すべてはおしまい」という邦題表記、シングルリリース時は原題のカタカナ表記。確かにこれから売り出そうとしているソロアーティストの本邦デビュー曲がその邦題では売れるものも売れなそうな気もします…

わたくしが入手できたのは見本盤で、どこかの有線かラジオ局からの放出品でしょう。ジャケ右上のシールに「ポ く 25-1」とあります。おそらく「ポ」はポピュラーのポと思われます。当時、洋楽はポピュラー音楽、邦楽は一般的なのが歌謡曲、若者向けはニューミュージックと呼ばれていました。で、「く」はグラハムさんの「く」、つまり、か行の三文字目「く」の26番目のアーティストの1枚目(25番はグラハム・パーカー氏?)、と解読しました。レーベルに「52.9.29」というスタンプがあるので、昭和52年=1977年9月29日までにはリリースされていた模様です。盤面はかなり綺麗なので、あまりオンエアはされなかったみたい…

ところがところがこのシングル、オーストラリアとニュージーランドでどちらもシングル・チャート最高位3位の大ヒットを記録します。リング・オーにとっては初めての「成功」と呼べる快挙です。

そして、ここまでリング・オーの変遷を見てくると、頻繁にオーストラリア=豪州という言葉が目につくことに気づきました。その辺を踏まえて、この後も何回かつづくであろうボネット氏の項(リング・オー・アーティスト中ボネット氏のリリースが一番多い)では、リング・オーと豪州という観点で考えてみたわたくしの私見を述べてみたいと思います。


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Ring 'O Records 1976年のリンゴスター [リング・オー・レコード]

さて、自身のレーベルを開店休業状態にしてしまったリンゴ・スター氏、その間に何をしていたのかを見てみます。

当時のリンゴの状況で忘れてならないのは、75年7月にビートルズ全盛期から10年連れ添ったモーリン(Maureen Cox, Starkey)夫人と離婚が成立したこと。自身の浮気症とモーリン夫人とジョージとのあれこれなどが蓄積した結果でした。

73年9月から始まるジョンとヨーコの別居でクローズアップされたロスアンゼルス界隈人脈のパリピ的乱痴気騒ぎ、所謂「失われた週末」仲間だったリンゴは、75年初頭にジョンがヨーコとの復縁で足抜けした後も、元のまともな生活に戻れなくなっていたようでした。離婚の代償は当然のこと、元妻&子供達への慰謝料や養育費等、半端ではない額の賠償義務を背負いました。

75年1月9日にビートルズの解散が法的に決着し、翌76年1月26日には元ビートルズとEMIとのレコーディング契約が切れます。

ジョンは生まれたばかりのショーン君と過ごすためにどことも契約せず、ポールは75年中すでにひきつづきEMI系列のキャピトルと契約更新、ジョージは74年に立ち上げていたダークホース・レーベル(Dark Horse Records)の配給元となったA&M Recordsと契約問題で揉め、レーベルごとワーナー・ブラザース(Warner Bros. Records)に移籍しました。

リンゴも76年3月、前年リング・オー立ち上げで契約した英国ポリドール(ビートルズ時代に広報を担当していたトニー・バーロウ(Tony Barrow)氏がこの時期ポリドール社の重役に納まっていました)に自身のレコード配給も任せることにしましたが、ポリドールの威光が弱い北米では、それまでの米国でのリンゴのソロ活動を高く買っており(実際リンゴは、バンド分裂後それまでに米国でリリースされた9枚のソロシングルうち7枚をビルボードトップ10に送り込み、そのうち2枚は1位を記録していました)、50年代からR&Bやジャズなど黒人音楽系の配給をルーツに持つ老舗ブランド、アトランティック・レコーズ(Atlantic Recording Corporation)と契約。このときの契約内容は、向こう5年間に7枚のアルバムリリース、一枚目は76年6月までに、というものだったらしいです。

この新たな契約はリング・オー・レコーズとの契約とは別物でリンゴ・スター名義作品との原盤配給契約。発足以来リンゴ個人はリング・オーとの契約は交わしませんでした。

さて、ポール以外のビートルメンバーと縁が切れてしまったEMIですが、ビートルズ時代の原盤再使用権を維持しているのをいいことに、この時期から80年代初期に渡り荒稼ぎに走ります。

手始めに英国でビートルズのオリジナル・シングル22タイトルの再発売、つづいて世界中で大々的に行われた旧アルバムのリイッシュー、更にアップテンポの曲を集めた28曲収録二枚組の編集盤LP「ロックン・ロール・ミュージック(Rock'n'Roll Music)」のリリース(選曲、ジャケットのダサさなどからジョンとリンゴにはかなり不評だったそうな)。

英国ではシングルカットされていなかった「Yesterday」が「I Should Have Known Better」のカップリングでシングル発売され、米国では編集盤から「Helter Skelter c/w Got To Get You Into My Life」のシングルリリース(英国では同アルバムから「Back In The U.S.S.R. c/w Twist And Shout」をカット)、つづいて「Ob-La-Di, Ob-La-Da c/w Julia」などなどビートルズ音源での一大ムーブメントを仕掛け、すべて旧譜にも関わらず各国のチャート上位を賑わせます。

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日本でも「来日10周年」と銘打ち東芝EMIから、それまでリリースされたアルバムを所謂「国旗帯」に変えレコード番号も変更しての大キャンペーンが張られました。名付けて「THE BEATLES FOREVER '76」。このブームでビートル沼にハマってしまった(当時若年層だった)ファンも多いと思います。

加えて、当時のポールはウイングスを率いての快進撃期。75年「ヴィーナス・アンド・マース(Venus and Mars)」、76年「スピード・オブ・サウンド(Wings at the Speed of Sound)」、LP3枚組ライヴ「ウイングスU.S.A.ライヴ!!(Wings Over America)」をリリース。75-6年にかけて大々的に行なわれたワールドツアーも大盛況、76年々間全米ビルボード・シングル・チャート第一位は「心のラヴ・ソング(Silly Love Songs)」という状況。

解散以来最大と言って良いビートルズ回顧ブームが訪れており、EMIの再発ラッシュで元メンバーそれぞれも、印税率はアップル発足以前の率に下げられていたものの、かなりの額を得たとされます。

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この日本盤シングルは、ポールがとっくにアップルから離れて(アップル・レーベルでの最後のシングルは74年10月25日=日本発売は12月1日の「ジュニアズ・ファーム」)レコード番号もEARからEPRに変わっていたにも関わらず、アップル時代の黒い中袋で東芝EMIから売られた最後のシングル盤でもあります(日本発売76年5月20日)。

そんな中でリンゴは契約を遂行すべく、4月から新アルバムのレコーディングに入ります。コンセプトは大ヒットした73年の「リンゴ」、74年の「グッドナイト・ウィーン (Goodnight Vienna) 」を踏襲した内容、すなわち元ビートル仲間や親交のあるクラプトン、ピーター・フランプトン、ドクター・ジョン、ニルソン等すでに名のあるミュージシャンを集めての曲作りとバッキングを担ってもらうという手法。

ただ前二作と異なるのは、アトランティックの副社長であり、アレンジャーとしても一流の腕を持つ大御所アリフ・マーディン(Arif Mardin)氏をプロデューサーに迎えたことでした。75年にプロデューサー部門でグラミー賞を獲得したマーディン氏を得たことでリンゴもすっかり安心してしまったようで、オケ作りはほとんど任せきり、制作中も離婚の要因となった当時の恋人=婚約者、モデルで写真家のナンシー・アンドリュース(Nancy Lee Andrews)嬢とドリンキング・アンド・ドラッギング三昧。欧州のあちこちでバカンスを愉しみつつ、スタジオでは来てくれた仲間たちとの親睦と歌入れに専念。レコーディングを終える7月には、モンテカルロの美容室で「暑いから」と眉毛まで剃った坊主頭になってみたりしていました。

アルバムは約束期日より約3ヶ月遅れの9月にリリースされ、リンゴも欧米諸国のプレス取材を受けるためナンシー同伴であちこち飛び回り、10月には日本も訪れ15日間滞在、テレビ出演や雑誌のインタビュー等、精力的にこなしました。また、今はなきアパレルメーカー「レナウン」の「Simple Life」と銘打ったメンズファッション・キャンペーン・コマーシャルの撮影がされたのもこのときでした。

下のジャケット写真は日本で撮られた写真を使ったアルバムからのセカンド・シングル。73年ヒットの「ユア・シックスティーン」74年の「オンリー・ユー」に続いて三匹目の泥鰌を狙ったのか1961年ブルース・チャネル(Bruce Channel)氏の大ヒット曲のカバー。ビールの注がれたコップ片手にゴキゲンなリンゴ氏。


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そんなこんなで発売されたアルバム「リンゴズ・ロートグラヴィア (Ringo's Rotogravure)」は、税金逃れであまり寄り付かなかった英国では信じられないことにチャートインせず、米国ビルボードで最高位28位という結果に。シングル「ロックは恋の特効薬」は全米最高位26位、カット二枚目の「ヘイ・ベイビー」は74位という結果に終わります。

ちなみに「ロックは恋の特効薬」が全米最高位26位に着いたのが発売日の9月20日から約一月半後の11月6日付(前週28位、前前週31位)、翌週13日付では26位をキープしたものの20日付で38位にダウンという、インタビュー等メディア露出で辛うじて注目を保っているような、ほんの数年前には考えられない、なんと言うか、焦れったい売れ方でした。

同時期にEMIが仕掛けたビートルズ回顧の熱気と、当時盛んに囁かれていた再結成への期待を、ポールは上手く追い風に出来たのですが、ライブ活動もせず、新作の雰囲気も数年前から変わらず状態のリンゴにとっては、そのマンネリ具合がファン離れを呼び、似たような新作ならビートルズを聴けばいいや的な向かい風となってしまったのかもしれません。リンゴはこの年を最後に81年まで、全米トップ40入を果たすシングルヒットが途絶えてしまうことになります。


この二年間でのリンゴの仕事振りと移籍後初作品の推移を見守っていたポリドールも、この結果に考えるところがあったようで、リング・オー・レーベルとの契約も仕切り直しされることになります。

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当時英国で配られたプロモーション用布製ワッペン(実物の直径は8cm)

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