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Ring 'O Records 04 Colonel (Doug Bogie) 01  [リング・オー・レコード]

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Cokey Cokey  c/w  Away in a Manger  by  COLONEL


1975年11月21日、カールさんのシングル盤から一週間遅れで英国リリースされたのがこの作品。この「Colonel」と称するバンド?ユニット?単独アーティスト?が一体何者なのか、日本では長い間謎に包まれていました。

後にご紹介する米国盤によってアーティスト名が「Colonel Doug Bogie」であることは知られていましたが、後年、インターネットの普及による各国からの情報やご本人からの発信もあり、その正体が徐々につまびらかになりました。

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一番決定的だったのは、2010年に英国Aurum Press社から出版されたMark Blake氏著のクイーン(Queen)伝記本「Is This the Real Life?: The Untold Story of Queen」。
この著作によってDoug Bogie氏なる人物は、ジョン・ディーコン(John Deacon)氏のひとり前のベーシストであったことが明らかにされました。

この本の記述と、その後のネット情報等を総合すると、1971年1月、当時のベーシストに脱退されてしまったクイーンが英国の音楽誌「メロディ・メーカー」のメン募欄に募集をかけたオーディションにダグ・ボギーさんがレスポンスしたことが始まりでした。
そのときダグさんは17才で地元スコットランドのセミプロミュージシャン。結果見事採用され、フレディ、ブライアン、ロジャーのラインアップなバンドに迎え入れられます。
バンドのギグに参加したのは2回だけ。最初は71年2月19日、60年代からつづく由緒正しき英国ロックバンド、プリティ・シングス(PrettyThings)の前座として。2回目は翌2月20日、英国プログレ界の雄、イエス(Yes)の前座としてキングストン工科大学でギグを行ないました。

そしてこのギグの後、反省会の楽器車内でダグさんはフレディ氏からNGをくらってしまいます。
フレディ氏は、バンドのバランス的にどっしりと構えた落ち着いたベーシストがご所望だったようで、一方ダグさんは当時17才(他方フレディ24才、ブライアン23才、ロジャー21才)、若さに任せて飛んだり跳ねたりの奔放なステージアクションが自身の持ち味だと思っていたのでした。結果フレディ氏から「すべてがひどい」「時間の無駄だ」という評価を下され、ブライアン氏からも良い顔はされずクビになったのでした。
明けて3月にジョン・ディーコン氏(当時19才)が後釜に座りクイーンの快進撃は始まります。ちなみにクイーンの歴代ベーシスト来歴は、Mike Grose氏、Barry Mitchell氏、 Doug Bogie氏、でJohn Deacon氏となります。

当時大学生だったダグさんは、電話回線技師見習などのバイトをしつつ、PAミキシングやレコーディング・エンジニアの勉強をつづけ、20才の頃にロンドンの由緒正しきコンサートホール、レインボウ・シアター(Rainbow Theatre)にオーデイションの末PAミキシング担当として採用され精進、更に英国のCBSスタジオ等レコーディングスタジオでもエンジニア見習として働き始めます。

有名どころとの仕事としては、英国のシンフォニックなプログレ・バンド、ルネッサンス(Renaissance)74年リリースのアルバム「運命のカード(Turn of the Cards)」にアシスタント・エンジニアとして、ジャズロック系プログレ・バンド、ソフト・マシーン(Soft Machine)75年リリースでジャケのイラストが可愛らしい(ちなみに私はバンドのことはよく知らずにこのアルバムを当時ジャケ買いしました)「収束(Bundles)」ではテープ・オペレーターとしてDoug Bogieの名前でクレジットされています。

そんなお仕事の合間に作っていた自身のSFチックでシリアスなコンセプトアルバムのデモテープがリンゴの耳に届き、お遊びでついでに作ってあったこの楽曲デモをえらく気に入ってくれたのが、当時リンゴとよくつるんでいた飲み友達でリンゴが最もリング・オー・レコードに引っ張りたがっていたけれどRCAが手放してくれなかった、著名シンガーソングライター、ニルソン(Harry Nilson)氏。
そんな経緯でボギーさんは、リング・オーとシングル一枚だけのリリース契約を決めました。アーティスト名である Colonel(カーネル=大佐という意味)もニルソン氏の発案だとか…ベタに「ボギー大佐」という洒落ですね。

この音源も現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思います。以前はYouTubeで聞けたりもしたのですが今は無いみたい。

A面の「COKEY COKEY」は、もともと欧米キリスト教圏で「Hokey Cokey」やら「Hokey Pokey」と呼ばれる19世紀頃からの英国伝承歌で、「左手入れて、左手出して、入れて出して入れて出して振り回して」という歌詞の通り、振りつけの付いたフォークダンス的楽曲です。伝承歌ゆえメロや歌詞も時代とともに色々変わっていくのですが、1942年に北アイルランド出身のJimmy Kennedy氏が「この歌詞の著作は私だ」と「COKEY COKEY」というタイトルで著作権登録された楽曲のカバーとなるのがこの音源です。

ダグさんのアレンジでは、ゆったりレゲエチックに心地よくレイドバックした感じで料理しています。タイムは約3分20秒。
ちなみに79年には英国グラム系パワーポップ・バンド、スレイド(Slade)が同曲を「Okey Cokey」というタイトルで、ほぼ同じ歌詞とメロディをストレートなロックサウンド大騒ぎアレンジにてシングル盤発売していました。

カップリングの「AWAY IN A MANGER」も19世紀発祥のキリスト降誕を歌った、これまた欧米圏で極めてポピュラーなクリスマスキャロル。同じタイトルで二種類のメロディがあるようですが、ダグさんのバージョンは「讃美歌21-269 飼いば桶にすやすやと」というタイトルで知られる方のメロディをパワーポップ全開なノリノリエイトビートでカバーしています。タイムは約2分55秒。
こちらの音源は以前、ドラムがリンゴでギターはクラプトン、という噂もありましたが実態は違うようで、その噂に対して、売れ残ったシングル盤を捌くためにレコード会社が流したデマだ、とする言説もありました。

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というわけで、このシングル盤はクリスマスシーズンをターゲットにしたトラディショナル楽曲アレンジのワンショット契約なノベルティレコードというのが結論のようです。
上の画像は当時の英国ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌かメロディ・メーカー誌に載った、このレコードの宣伝広告。切り抜き済で入手したため掲載誌が定かではありません(蛇足ですが切り抜き裏面はジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)嬢のジャコパス・コラボ直前な傑作アルバム「夏草の誘い(The Hissing of Summer Lawns)」の広告断片です)。

ずいぶんと長くなってしまったので、ダグ氏のその後などのご紹介は次の米国盤紹介の項で。

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Ring 'O Records 03 Carl Groszmann 01 [リング・オー・レコード]

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I've Had It  c/w  C'mon and Roll  by  CARL GROSZMANN


レーベル第3弾めのシングルは、1975年11月14日リリース、オーストラリア出身ミュージシャンのこの曲でした。
 
カール・グロスマンさんは十代の頃から豪州ミュージックシーンで音楽活動を開始し、それなりに名前が売れていたようで、極初期のビージーズ(The Bee Gees)=英国生まれ豪州育ち、に楽曲をカバーされたりもしていたようです。1960年代末に音楽仲間数名とともに英国ロンドンへと移住して音楽活動をつづけます。
移住してすぐの1970年に自身が書いた「ダウン・ザ・ダストパイプ(Down the Dustpipe)」という楽曲が英国のバンド、Status Quo(当時の日本盤リリース元レコード会社の表記に従うと、ステイタス・クオ)に取り上げられ、全英最高位12位のスマッシュヒットとなりました。

1973年には、こちらも英国生まれ豪州育ちなオリビア・ニュートン=ジョン(Olivia Newton-John)嬢に「片想い(Being on the Losing End)」という楽曲も提供。日本では、独自選曲編集のベスト盤で金ピカジャケットの「クリスタル・レイディ(Crystal Lady Golden Double 32)」という二枚組レコードに収録されていました。
ちなみにカールさん、楽曲提供のときはスペルが少し違ってGrossmann名義、豪州時代はCarl Keatsという名前でした。

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そんな地道な活動の末、リング・オーと契約したカールさんにリンゴの期待も大きかったみたいで、リンゴが76年に発表するポリドール移籍第一弾アルバム「リンゴズ・ロートグラヴィア (Ringo's Rotogravure) 」のA面1曲めにして先行シングルにカールさん作の「ロックは恋の特効薬(A Dose Of Rock'n Roll)」が選ばれています。
また、カールさんのこのシングルリリースと同時期にアルバム制作も企画されたらしく、実際にリング・オーのレコード番号までアナウンスされていましたが結局未発表。そのカタログ番号である2320 102は欠番となっています。

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この音源もカップリングの「C'MON AND ROLL」共々現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思います。A面の「I'VE HAD IT」は日本語に訳すと「もうやだ」みたいな常套句ですから、YouTubeで検索すると別アーティストの同名異曲がたくさんヒットします。
プロデュースは、Peter Gage氏という人で、60年代に英国でそこそこ名を馳せたパブ・バンドのメンバーで70年代には、よりファンキーな別バンドで活動していた人、以上の情報は探せていません。なのでレコーディング参加メンバーも不明です。

サウンドはというと、50~60年代ノスタルジック寄りの陽気でポップでキャッチーなロックという感じ。声質がしゃがれ気味だけれど通る感じに独特で、楽曲の傾向としてはラトルズ(The Rutles)で有名なニール・イネス(Neil Innes)氏の70年代初期ソロ作品に通じるものがあるかな、と感じました。

このシングル盤は英国リング・オーのみのリリースで他国では一切リリースされませんでした。更に77年にもう一枚リング・オーからカールさんのシングルのリリースがあるのですが、その際のプロモーション用ライナーノートではそっちのシングルがデビュー盤とされ、こっちのシングルは無かったことにされていました。

なお、カールさんは2018年7月にオーストラリアで亡くなられたそうです。Rest in Peace.

カールさん絡みでは、ロートルなビートルファンであれば興味深いエピソードがまだあるのですが、それは次作シングルの項で。

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Ring 'O Records 02 Bobby Keys 01 [リング・オー・レコード]

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Gimmie the Key c/w Honky Tonk(Part1&2) by BOBBY KEYS


リング・オー・レコーズ・リリース第二弾は、1975年8月25日全米先行リリース、Bobby Keys(ボビー・キーズ)氏のこの楽曲のシングル盤です。アメリカでの配給元はキャピトル・レコーズで、専用の黒いスリーブに入っていました。


ロック系のサックス奏者として名を馳せたこの人に関しては、当時の洋楽好きな方々には説明不要と思います。ストーンズ(The Rolling Stones)の「ブラウン・シュガー(Brown Suger)」やジョンの「真夜中を突っ走れ(Whatever Gets You Thru The Night)」のサックス・ソロでもおなじみの名サックス・プレイヤー、ビートル関係ではジョン、ジョージ、リンゴのいくつかのアルバムでもプレイしている売れっ子セッションマンでした。知らない、という方はWikiで検索どうぞ。


プロデュースは、同じサックス仲間で当時ボビーさんとセットで様々なセッションに呼ばれ、ストーンズのツアーも一緒に巡っていたトレヴァー・ローレンス(Trevor Lawrence)氏。
この音源は現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思いますが、YouTubeでアーティスト名と楽曲名で検索すればA/B面とも容易にヒットするはずです。



一聴したとき感じたのは、このサウンド、なんか知ってる…という既視感(既聴感?)でした。よくよく考えて、これだ、と思ったのは、このリリースより少し前、前年からヒットし始めて全米ナンバー1ヒットとなったアヴェレイジ・ホワイト・バンド(Average White Band=AWB)の「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」(Pick Up the Pieces)。当時ラジオや街中の有線で、おしゃれなインスト曲として、頻繁にかかっていたのを思い出しました。


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レコーディングメンバーに関しての情報は何もみつけられていないのですが、サウンドはギターもベースもいかにもなジャズ≒フュージョン(当時はクロスオーバーって呼ばれていたっけか)畑ミュージシャン的タイトな演奏で、リンゴ人脈ではない(録音には関わっていない)な、と思わされます。

なので、この当時のボビー氏参加作品を漁っていたところ、ジョー・コッカー(Joe Cocker)氏の75年4月発売のアルバム「ジャマイカ・セイ・ユー・ウィル(Jamaica Say You Will)」に収録の「It's All Over But the Shoutin'」という楽曲にボビーさんとトレヴァーさんが参加、他のメンバーにギター=コーネル・デュプリー(Cornell Dupree)氏、ベース=チャック・レイニー(Chuck Rainey)氏、ドラム=バーナード・パーディ(Bernard Purdie)氏という、いかにもなメンツをみつけて、この辺の方々の参加かな、と妄想しております。


愉しげにリラックスしつつもタイトな演奏なカップリングの「Honky Tonk (Part 1 & 2)」は、1956年発表なスリーコードブルースのスタンダード曲。あのソウルブラザーNo,1ジェームス・ブラウン(James Brown)氏も1972年にシングル盤リリースしています。


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こちらはGIMMIE THE KEYのロングバージョン(レギュラー盤は2分34秒、ロングバージョンは4分06秒)を収録したプロモーション盤(SPRO-8193)。A/B面とも同じヴァージョンをステレオで収録。


サックスソロ後の2分過ぎくらいまではずっと同じで、レギュラー盤はそこからド頭のリフに戻ってそのままフェードアウトで終わりますが、ロングヴァージョンは、ソロ後にBメロをもう一度挟んでからひと通りくり返す感じです。おそらくこちらがオリジナル録音でレギュラー盤が編集でしょう。

レーベル面に大きく「DISCO」と書かれていることからもわかるように、当時のディスコ・クラブにプロモ盤を配ってのヒット狙いアイテムだったのでしょう。


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アメリカでのリリースから10日くらい遅れて1975年9月発売となった英国盤。

この他に各々別デザインのピクチャースリーブが付いたフランス盤、ドイツ盤(この頃はまだ西ドイツ)ベルギー盤がリリースされたようで、下画像は英国盤と同番号、同カップリングのフランス盤。

リリース元はフランスのポリドールでポケットタイプのスリーブが付いています。


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なお、ボビー・キーズ氏は、2014年12月2日米国テネシー州で、病気のため70歳で亡くなっています。Rest in Peace.

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Ring 'O Records 01 David Hentschel 02 [リング・オー・レコード]

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1975年3月3日付 New York Magazine の広告

アルバム「Ringo」収録曲全曲をARPシンセでインストゥメンタルに料理したこのアルバムは、リンゴが持つ自身の楽曲出版社名と同じ「Startling Music」と名づけられました。

1974年9月に、その後世界的に話題を呼んだ富田勲氏によるムーグ・シンセサイザーミュージック作品群の処女作にあたる「月の光」が、保守的な日本のレコード会社各社に断られた挙句、米RCAレコードより「Snowflakes are dancing」というタイトルで全米リリースされ、徐々にシンセミュージックが注目を集めていた頃なので、会社側もそれなりの期待感を持っていたと思われます。

https://www.youtube.com/watch?v=wD-b6mU3SYQ

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楽曲によっては、シンフォニック系のプログレっぽく聴けないこともない曲もいくつかあるのですが、歌メロを忠実になぞってしまうとファミレスのBGMとかにありがちなサウンド、という印象になってしまい、このアルバムは、リリース後、ほとんど話題になることもなく、セールス的にも惨敗だったようです。

個人的には、歌メロが露骨に出てこないA1、A2、A5のPart1や、教会音楽風の荘厳なオーバーチュアを3分20秒余りに渡り冒頭にくっつけたB1(本編に入るとファミレスBGM風)、若きフィル・コリンズ氏の手数ドラムが炸裂する当時流行のフュージョン風味(この頃はまだクロスオーバー・ミュージックて呼んでいたっけかな?)なB2、B5などは面白く聴けました。とくにA2なんて、知らずに聴いたら同じ曲とは思えないんじゃないかな。
ちなみにビートルズメンバー参加音源マニアの方には、A3が要チェック。リンゴがFinger Clicks(ようするに指パッチンですね)で参加しています。とても控えめな音で録音されています。

あと、ムーグと言えば、このアルバムの日本盤LPは、オビで大嘘をついています。
(クリックで拡大出来ます)

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わかりました?デヴィッドさんの愛機はARP(アープ)社のシンセサイザーです。ムーグ(本来の発音はモーグだそうな)社とアープ社はライバル同士。
無難に、シンセサイザーで演奏した、ってしておけばよかったのにね(笑。

リリース状況は英米日の他、アルバムは、フランス、ドイツ、オーストラリアで、シングルは同カップリングで、フランスとドイツでのリリースが確認されています。

セールス的には失敗作に終わった本作ですが、デヴィッドさんにとっては、このアルバム制作が自身の次のステップに向けての大きな足がかりとなりました。そのキーパースンとなったのが、このアルバムにドラマーとして参加したフィル・コリンズ氏。
ビートルズ大好きのフィル氏とデヴィッドさんは意気投合し、ちょうどピーター・ガブリエルが脱退して変革期にあったフィル所属のバンド=ジェネシスのニュー・アルバムをバンドと共に共同プロデュースすることになります。

そう言えばフィル氏は、90年代のインタビューで、ジョージの「All Things Must Pass」セッションに呼ばれてコンガを叩いたという逸話を披露していました。おそらくこのとき、フィル氏とデヴィッドさんはすでに顔合わせしていたと思われます。奇しくもフィル氏は1951年1月30日生まれでデヴィッドさんとはきっかり一歳違い。30歳前後の一流ミュージシャンばかりが集った現場で、まだ10代だった浮いているふたりが言葉を交わしていた可能性はあると思います。

ジェネシスとは、1976年リリースの「A Trick of the Tail」から1980年の「Duke」までのスタジオ・アルバム4作で、エンジニアとバンドとの共同プロデューサーを勤め、「Duke」では、ジェネシスとしては初めて、英国アルバムチャート1位を獲得しています。

この頃のジェネシスだと、この曲が好き。
https://www.youtube.com/watch?v=vRD49AFxJVI

ちなみに、フィル氏と一緒に「Startling Music」セッションに参加した、ギターやバンジョーでクレジットされている Ronnie Carylという人は、1969年にフィリップス系列の Fontana Records からデビューした Flaming Youth というバンドをフィル氏と組んでいたバンド仲間(このときは、ベース&ギター担当。もうひとりのギタリストと曲によってギターとベースをとっかえっこしていた模様)で、シングル3枚、アルバム1枚を残した後、1970年、共にジェネシスのオーディションを受け、フィル氏採用、ロニー氏不採用となったそうな。

えらく若いフィル氏の雄姿が拝めます。
https://www.youtube.com/watch?v=4fj9JZhG8s4

その後も陽が当たらないながら地道に活動をつづけていたようで、約四半世紀後の1996年、フィル氏のバックバンドのバックボーカリスト兼リズムギタリストとしてツアーを巡ることになる、という、なんだかほっこりするお話もあります。

ロニー氏の公式サイト
https://sites.google.com/site/ronniecarylofficialsite/biography-en-1

「Startling Music」のセッションには、もうひとり、David Cole というドラマーも参加していて、シングルカットされた「オー・マイ・マイ」だけ、なぜだかこの人が叩いているのですが、この人に関しては情報が探せませんでした。

デヴィッドさんはその後も、エンジニア、プロデューサー、映画音楽などで数々の実績を残し、現在も第一線で活躍されています。詳しくはデヴィッドさんのサイトのProfileからDiscographyの欄をご覧ください。

この項の締めくくりは、そんな裏方気質のデヴィッドさんが自身の名義で出した、数少ない(であろう)レコードのうち、わたくしが唯一入手出来た一枚です。
1983年英国リリースの同名映画サウンドトラック盤シングル「Educating Rita c/w I Can't Dance」(mercury RITA1)。
作曲、アレンジ、プロデュース、エンジニア、すべてデヴィッドさんです。

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A面
https://www.youtube.com/watch?v=GzQbNzP4eUA
B面
https://www.youtube.com/watch?v=kIpO74dOccg

「Educating Rita」は、1983年公開のイギリス映画。日本では劇場未公開ですが「リタと大学教授」というタイトルでソフト化されました。
けっこう評判の良い映画で、その年のアカデミー賞、英国アカデミー賞、ゴールデングローブ賞に他部門でノミネートされ、いくつか受賞しています。現代版「マイ・フェア・レディ」と評されたそうな。

そんな感じで、デヴィッド・ヘンチェルさんの今後益々のご活躍をお祈りしつつ、ご紹介を終わりたいと思います。
それではみなさま、ごきげんよう。

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Ring 'O Records 01 David Hentschel 01 [リング・オー・レコード]

去る4月28日のサー・ポール・マッカートニー武道館公演を観て、ビートルズをずっと聴いてきて良かったなあ、とえらく感動していたら、翌日に「A is for Apple VOL.1 1966-1968」という凄まじく詳細な APPLE Corps の研究本が届き、パラパラめくっていたら、なんだか無性にビートルズ関連の文章を書きたくなり、突然復活しました。

これがその本。
ハードカバー厚さ約5センチ、686ページ、写真はすべてカラーという労作です。

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何について書こうか、といろいろ考えたのですが、ビートルズ関連は、コレクション、楽器、演奏、追っかけ、エトセトラ…たいがいの分野で詳細に研究されている方のサイトやブログがみつけられます。
それならうんとニッチな部分で、と考えて思いついたのが Ring O' Records 。70年代半ばにリンゴ・スターが設立したレーベルです。

このレーベル名を冠して日本盤が出たアーティストが一名しかいないこと、リンゴ自身がこのレーベルから一枚もリリースしなかったことなどから、とくに日本では、リング・オー・レコーズの知名度は超低いみたい。今回ご紹介するアーティスト「デヴィッド・ヘンチェル」でググると、わたくしが15年前くらいに作って放ったらかしのサイトが1ページ目にヒットするくらいの注目度です(笑

というわけで、これからヒマをみつけてぼちぼちと、 Ring O' Records からリリースされたレコーズとアーティストのあれこれを、わたくしがみつけた、ためになる他サイトさんへのリンクも織り込みながら、ご紹介していきたいと思います。

まずは、Ring O' Records の概要です。2004年で更新が止まっているこのサイトさんが見やすいです。

http://www.rarebeatles.com/ringorec/ringo.htm

Ring O' Records というレーベル名が初めて公になったのは、1974年9月20日、英ポリドールにより、近い将来リンゴが設立するレーベル=Ring O' Records を配給する予定がある、と発表されたときでした。ただし、RING O という呼称とレーベルロゴにもなった電話のダイアルを模したロゴマークは、1973年7月26日にリンゴが設立した音楽出版会社=Wobble Music Ltd.のロゴとして、すでに以前から使われていたようです。新レーベル名を決めるにあたってはジョン・レノンのサジェストがあった、とする文献もあります。ちなみに、その2週間前の9月6日には、ジョージ・ハリスンが自身のレーベル=Dark Horse の設立を発表していました。

Ring O' Records からの初リリース、デヴィッド・ヘンチェル David Hentschel のアルバム「Startling Music (ST-11372)」最速リリースはアメリカで、1975年の2月17日。ST というレコード番号からもわかるように、米キャピトルからの配給でした。同時にシングル盤「Oh My My c/w Devil Woman (4030)」もリリース。主要音楽誌や一般誌にも告知広告をうち、けっこう話題となりました。

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1975年2月15日付Billboard 誌の広告

本国イギリスでは、遅れること約一ヶ月の3月21日に、まず同カップリングのシングル(2017 101)を、アルバム(2320 101)はアメリカ盤から丸々2ヶ月遅れの4月18日でした。こちらの配給はもちろん英ポリドール。

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新レーベルを発足して記念すべき初アーティストをリリースしたというのに、リンゴが雑誌インタビューなど本格的にレーベルのプロモーション活動を開始したのは、1975年4月初旬から。ビートルズ史的には会社登記された1975年4月4日が正式発表の日ということになっています。イギリスでのアルバム発売に合わせた、と言えばそれまでですが、このへんのグダグダさ加減が、後のレーベルの行く末を早くも暗示しているかのようです。

日本ではずいぶん遅れて、1975年6月1日にシングル(DW1091)が、同年7月1日にアルバム(MW2117)がポリドールよりリリース。少なくとも当時のML誌には、ポリドールからの白黒広告もあったし、シングル、アルバム共にレビューも載っていた記憶があります。ちゃっかり日本語のロゴなんかも作っちゃって、それなりに宣伝されてはいました。

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そんな記念すべきリング・オー・レコーズ第一弾アーティストのデヴィッド・ヘンチェル David Hentschel さんとは、どんな方なのでしょう。

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オフィシャルサイトをどうぞ。

http://www.thekeyboard.co.uk/

1952年1月30日サセックス生まれのデヴィッドさん。17歳からロンドンのトライデント・スタジオで働き始めます。初仕事は、1969年7月のデヴィッド・ボウイ「Space Oddity」セッションでのお茶汲みでした。その翌年にジョージの「All Things Must Pass」セッションにエンジニア=ケン・スコットのアシスタントとして参加(クレジットはされていません)。1972年のポールとウイングスによる「Red Rose Speedway」セッションでも、ボーカルやその他細々としたオーバーダブに立ち会った、とご本人が申しております。

1973年にトライデント・スタジオにARPシンセサイザーが導入されたのをきっかけにシンセにのめりこみ、今で言うマニピュレーター的お仕事で頭角を現します。その一つの頂点と言えるのが1973年10月にリリースされたエルトン・ジョンの名作アルバム「Goodbye Yellow Brick Road 」の一曲目「葬送〜血まみれの恋はおしまい(Funeral for a Friend/Love Lies Bleeding)」。冒頭のARPシンセサイザーは彼の演奏で、ミュージシャンとしてもクレジットされています。更にアルバム全体のエンジニアとして、1973年グラミー賞ベスト・エンジニアード・レコーデイング(ノン・クラシック)部門にもノミネートされました。ちなみにその年受賞したのは、こちらもARPシンセを随所にフィーチャーしたスティヴィー・ワンダーのアルバム「Innervisions」でした。

フリーランスのお仕事も増やしたいと思っていた頃、ちょうどリンゴが自身の新レーベルのアーティストを探していることを知り、デヴィッドさんのマネージメントをしていた人が、アップルのニール・アスピナル氏と知り合いだったこともあり、デモテープがリンゴの耳に届きます。その内容は、リンゴの1973年の大ヒットアルバム「Ringo」収録曲をシンセサイザーでインスト演奏したもの。これをリンゴはたいそう気に入り即契約。1973年9月にジョン・レノンから譲り受けたアスコットのスタジオ(アルバム「Imagine」の録音風景で有名ですね)、その名も Startling Studios にわざわざ ARP2500 を導入し、1974年9月にレコーディングが始まりました。

プロデュースはデヴィッド本人と John Gilbert という人。この人がデヴィッドさんをニール・アスピナル氏経由でリンゴに紹介したデヴィッドのマネージャーさん。IMDbで調べると、60年代から活動している英テレビ番組の劇伴音楽プロデューサーぽい方のよう。ドラムとギター、バンジョーに数人雇った以外は、すべてデヴィッドのシンセでの演奏、アレンジと録音エンジニアも本人という、身内で固めたこじんまりとした録音だったようです、出来上がった音は、こんな感じ。

https://www.youtube.com/watch?v=MeYxavdRwrI
https://www.youtube.com/watch?v=LJZqyhFoSO0

想定外に長くなりそうなので、いったん切ってつづきます。

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